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うつ病資質
判断力とうつ病
経験の必要性
画一的思考とうつ病
yahoo知恵ノートの終了に伴い知恵ノートより移設。
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集団ストーカーやガスライティングについての質問に対し、直ぐに統合失調症と決め付ける人が多いのだが、集団ストーカーやガスライティングと統合失調症は別物である。
別物ではあるが、そうした物が実在している訳でも無い。
集団ストーカーやガスライティング妄想とは、人間不信や被害妄想を持つ者がインターネットで陥るマインドコントロールであり、集団ストーカーやガスライティング妄想と被害妄想は分けて考える必要がある。
うつ病や統合失調症から来る症状は「不安感」であり、その不安感から被害妄想が生まれるのだが、病気でなくても被害妄想は生まれるので、被害妄想は病気の症状とは言えない。
被害妄想の原点に有るのは人間不信である。
その人間不信の原因が、病気から来る不安感であれば投薬治療で不安が治まれば勝手に消えるのだが、愛着形成に問題が有れば投薬治療で不安が治まっても、愛着形成を正さなければ被害妄想は消えない。
これが集団ストーカーやガスライティングと言うマインドコントロールに陥っていれば、マインドコントロールを解かなければ、愛着形成を正す事も出来ない。
まるで竹の子の皮の様だ。
幻聴が自他境界の曖昧性で起きるのと同じ様に、ネットによるマインドコントロールは現実と非現実の曖昧性によって陥り易い。
例えば「調べる」と「確認」の違いだ。
インターネットのマインドコントロールに落ちやすい人は、ネットで調べただけで「確認」したという人が多い。
しかしそれは確認では無く、他人の言動や文章を鵜呑みに信じているに過ぎない。
自分自身の検証作業が伴っていないのだ。
そこに「虚実の曖昧性」が生じる。
乱暴な言い方をすると、実験の伴わない科学は妄想と変わらないのである。
また、「調べる」と言う事は、知らないから調べるのであって、最初から知っていれば調べない。
そして、知らない事を調べても、知らない人はその虚偽を見抜く事が出来ないので、半信半疑ながらも書いてある内容を読み、それが先入観となる。
一旦先入観を植え付けられてしまえば、それまでスルーしていた物を意識して探してしまい、見付けてしまう。
そのスルーしていた物とは、気にも留めなかった何所にでもある日常である。
人間不信や被害妄想を持つ人に、「それが犯行の手口」と先入観を与えられて、自分で見付けてしまえば信じ込んでしまう。
それが、ガスライティングと言うマインドコントロールである。
なので、彼等には他人の日常が自分に対する嫌がらせの手口に見えている。
集団ストーカーは、ストレスから来る自律神経症状(不安感も含む)を持つ人に対し、それは嫌がらせだとか電磁波攻撃とか超音波攻撃とかテクノロジー犯罪との先入観を植え付けて、マインドコントロールに陥る。
だからこそ、皆が同じ言動になる。
幻聴や被害妄想的な質問をすると、直ぐに統合失調症と決め付け病院へ行けという人は、統合失調症の症状に、幻聴幻覚、被害妄想と書いてあるのを読んだり聞いたりして、鵜呑みに信じて決め付けているに過ぎない。
もし、何人もの集団ストーカーやガスライティングの被害に遭っていると主張する人達に会い実態を調査すれば、幻聴や幻覚、被害妄想と言う物は、病気を起こす原因であって特有の症状では無い事を理解するだろう。
実際問題として、そうした人達に治療を薦めて、統合失調症と診断されたケースは極めて少なく、精神疾患や神経症を発症していなかったケースもある。
知恵袋で、集団ストーカー=統合失調症と返信する事は、「病気に仕立る手口」との確信を与え、マインドコントロールの深みに追い込む事になる。
マインドコントロールは症状では無いので、マインドコントロールに陥っていれば治療の効果は現れ難くなり、本人のみならずその家族の方を、何時終わるとも知れない不幸に落とし込む事になる。
通常、治療は投薬が中心で、主に投薬で不安を軽減させる。
インターネットが普及する前であれば、不安が軽減すれば被害妄想も薄らいだのだが、ネットが普及し、マインドコントロール状態になっていれば、日常が犯行と思い込まされているので、不安が消えても被害妄想は消え難い。
しかし、マインドコントロールと言う視点を持ては、治療とは別に「マインドコントロールを外す」と言う視点が生まれてくる。
実際、治療を受けても被害妄想が消えなかった人のマインドコントロールを外すと、被害妄想はなりを潜めて治療の効果が出ている。
また、発病の疑われる人のマインドコントロールを外しても、特定の被害妄想は消えるが不安は消えない。
発病に至っていないと思われる人のマインドコントロールを外すと立ち直る。
そうした事から、治療とマインドコントロールは別に対応すべき問題である事が分かる。
集団ストーカーやらガスライティングやらテクノロジー犯罪を信じる事は個人の自由だ。
なので、そうした物を信じている人に、「そんな物は妄想だ」とは言わない。
しかしこれだけは覚えておいた方が良い。
そんな物を信じ続けていると、脳細胞が徐々に破壊されて行き、やがては廃人となるか事件を起こして逮捕されるか、自死を選ぶかしかなくなる。
通常ストレスが一ヶ月継続すれば、大半の人が鬱病になる。
それはストレスにより脳血流が悪化し、脳細胞がダメージを受けて萎縮していくからだ。
また、ストレスが続くと神経過敏や記憶障害を引き起こす。
集団ストーカーやテクノロジー犯罪と言うマインドコントロールは、日常を犯行と思わせてしまう。
その為、ストレスを受け続ける事になる。
ストレスを受け続ければ、脳は萎縮を続け機能を失って行く。
萎縮とは、脳細胞が死滅して行く事を意味する。
つまり、信じ続けている期間が長くなるほど、脳の機能は失われ、脳の回復は望めなくなると言う事だ。
また、ストレスは自律神経と密接に関係しており、心臓を動かしているのも、免疫システムも自律神経の領分だ。
なので、集団ストーカーを信じ続けていれば心不全を起して突然死する可能性が高まり、NK細胞の減少から発ガン率も高まる。
実際に、相談者の関係者で2名ほど心不全で他界されている。
(相談者は家族、他界されたのは本人)
何を信じるかは個人の自由だ。
しかし、信じた結果は自分に返って来る事を忘れてはならない。
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騒音の調査をしても、騒音と呼べる程の騒音が計測されない事が多く、声の録音をしても聞こえている声が録音されない事が多いのだ。
上の階の人が自分に合わせて移動して来ると言った物だ。
トイレに行けば自分に合わせるかの様にトイレに行き、台所に行けば台所で音を出され、風呂に行けば風呂に行く足音が聞えるなど、まるで自分の行動を把握されているかの様に、自分の部屋の行く先々で音が聞こえると言い、行動を把握されているので盗聴や盗撮で監視されていると言うのだ。
こうした事を訴えている人は意外と多い。
しかし、実際に調べてみるとそうした事実関係があった例が無い。
例えば、本人は音が聞こえるので上階の人がいると思っていても、実際には留守だったりする。
そんな時でも聞こえていたり、空室なのに聞えている人もいた。
では何故、そんな音が聞こえているのか?
最も多かったのが、通常は聞えない自分の足音の反響が聴覚過敏で別人の足音の様に聞えていたり、全く別の音が補完されて聞こえていたり、人によって色々なケースがある。
聴覚過敏は特定の音にだけ過敏な人もいれば、全体的に過敏な人もいる。
ストレス性の難聴では、低音の耳鳴りが聞こえ、それがモーターの音の様に聞こえるのだが、これも本人には難聴の自覚が無い。
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自分の行動を指摘する声や実況する声、悪口や誹謗中傷する声が聞えても、その声が実在するとは限りません。
実在しない声はどれ程高性能な録音装置を用いても録音など出来ません。
そうした声が聞えても録音出来ないのなら、嫌がらせとか犯行を疑う前に幻聴を疑いましょう。
この知恵袋で幻聴系や被害妄想的な質問をする人に対して、直ぐに統合失調症を持ち出す人を見かける。
しかし、幻聴や被害妄想は統合失調症特有の症状では無い。
質問者に「それは統合失調症」と返信すれば、質問者を追い込む事になり兼ねないので、著書として出してはいるが、私が調べてきた事を「知恵ノート」にも記して置こうと思う。
まず幻聴系だが、幻聴と一言で言っても色々なケースが存在する。
大分類として、「音系」と「声系」に分類される。
「音系」は声ではなく「音」が聞えるタイプだ。
その音を不快に思っていたり、嫌がらせのように感じている人も多い。
また、自分の室内の行動に合わせて音が移動して聞えるので、「盗聴器などで居場所を知られて嫌がらせをしている」と思い込んでいる人も少なくない。
聞える音を不快に思っている人は「生活騒音」と言い、嫌がらせと感じている人は「仄めかし」と言ったりする。
「声系」は声が聞こえるタイプで、主に自分の行動を指摘する声や、自分の噂や悪口など、自分を否定するような声が聞こえる人が多い。
「音系」と「声系」、この両者とも共通した特徴がある。
まず音系だが、第三者立会いで計測しようとすると、その音は聞えない場合が殆どである。
また、音が聞こえた場合でも、第三者には騒音と言える程の音には聞えない。
そこで、本人に機材を渡して測定すると「40db」もありましたと言う報告が来る事がある。
その数値は、騒音など存在して無い事を示す数値である。
「40db」と言えば、深夜の市内、図書館、昼の住宅の音レベルで、かなり静かな状態を示す数値だ。
では何故40dbが騒音に聞えるのか?
実は、彼等に聞えているのは騒音ではない。
最も多いのが「感覚過敏(聴覚過敏)」で、小さな音が大きな音に聞えている。
聴覚過敏は症状と言うより、防衛反応として出ていると考えた方が分かりやすい。
そもそもストレスとは敵に襲われた時の防衛システムであり、ストレス状態にあれば脳は警戒モードに入り、接近者を逸早く発見出来るように音に敏感になる。
そこには他者に対する不信が有る場合が多く、脳が他者を敵認定していればストレス状態となり、そのストレスが警戒モードを引き起こし、音に敏感になる事で些細な音が気になり、ストレスが増して行く悪循環に陥る。
脳にはノイズキャンセラの様な機能が備わっているのだが、聴覚過敏はその機能が作動しない事が原因と考えられる。
また、感音性難聴やメニエール病などのストレス性の難聴の人は、換気扇等のモーターの様な耳障りな低音が聞えているのだが、それは低音性の耳鳴りであり、その耳鳴りを騒音だと思いこんでいる人が多い。
また、時折寝ようとすると、ドアを強く閉めたり、ドンドンと足音を鳴らしたりする嫌がらせをされると言う人もいるが、それは「脳内爆発音症候群」によって聞えている場合が多い。
それら全てに共通する原因が「ストレス」である。
ストレスとは本来、敵から身を守る為の防衛反応である為、ストレス反応が出ると神経が興奮状態となり、交換神経も優位な状態となる。
ストレスが続くと交感神経優位な状態が続き、その結果、聴覚器官や脳の神経への血液供給が悪化する事で機能低下を起す。
それが耳に症状が出れば感音性難聴などの難聴になり、脳に出れば精神疾患となる。
また、これは実際にそのお宅へ出向かなければ分からないが、こうした事が原因で騒音を訴える人(トラブル化している人)は例外無く何らかの形で孤立化している。
社会的孤立、家庭内孤立、精神的孤立、対人的孤立などなど。
そして、コミュニケーションに苦手意識を持っている。
孤立化は感覚過敏を引き起こす原因となるのだが、これは一概に病気とは言えない。
感覚過敏(聴覚過敏)を理解するには、人間が集団で生きる動物である事から理解する必要がある。
集団を形成する動物のメリットは、集団を形成する事で種の生存率を上げる事だ。
天敵に狙われた時、集団を形成していれば多くの目があるので逸早く天敵の接近を発見する事が出来る。
そうした多くの目がある集団にいれば、自分が警戒していなくても誰かが警戒しているので気を抜ける時間が作れる。
また、一匹で生活していれば天敵に襲われた時の生存確率は低いが、集団でいれば生存確率は高くなり、種の繁栄に繋がる。
しかし、集団のメリットを享受する為には絶対条件がある。
それは仲間への信頼。
もし、集団の仲間を信じられなければ敵中に孤立しているのと変わらない。
つまり、孤立とは集団から逸れた状態であり、脳が警戒を解けない状態となる為に神経が過敏になる。
その警戒こそがストレス状態であり、脳が警戒モードに入っている為、些細な音でも気になってしまい、自分に向けられた音のように感じてしまう。
声系の人はその進化版と考えれば分かり易いだろう。
声系は、聞こえている音に「補完機能」が働いて音が声に聞こえたり、聞き取れない音量の音や会話の内容を勝手に脳が補完して聞こえている。
この補完機能は誰もが備えている能力で、病気の症状では無い。
それは「録音の解析」をする事で明らかにしている。
例えば「あ、また食べてる」と言う声が録音されているとして送られたファイルには、ボリュームを最大にしても聞き取れない程の音が録音されていた。
その音が入っている部分だけをカットし、音量を増幅するソフトで何倍にも増幅して聞くと「あ」の部分は電子音の「ピ」と言う音が録音されており、「また食べている」と言う部分は、工事現場の音に混じって「何で壊すの」と言う声が確認された。
別の代表的な例では「犯人が語りかけてくる声が録音されています」と言う録音ファイルを相談者が持ち込んで来た。
その録音ファイルを音声スペクトラムアナライザーで音を視覚化して分析すると、相談者の声以外には雨音と時計の音しか録音されておらず、私には本人が一人で話しているようにしか聞こえない。
しかし、一緒に聞いていた相談者には相手の声が聞こえると言う。
これらのケースの面白い所は、それが録音ファイルであると言う事だ。
録音ファイルなので、脳内通信だとか電波送信だとかの戯言は通用しない。
録音ファイルからは電波だとかテレパシーなどは間違っても出ない。
しかし、相談者には何度ファイルを再生しても、同じ所で同じ内容が聞こえているので間違いなく音が原因で聞こえている。
そう、このファイルには確かに声の原因が録音されていた。
その原因が、雨音と時計の音であり、それらの音を声に補完して聞こえていたのだ。
「あ、また食べてる」の音声ファイルも同じ様に、電子音の「ピ」を「あ」に「何で壊すの」を「また食べてる」に、聞き取れない程の雑音を声に補完して聞えていたのだ。
この手の幻聴には、共通した特徴がある。
声が聞こえる時には必ず雑多な音(ノイズ)が存在し、「無音」では幻聴が聞こえない。
そして無音の時は、耳が「ボーン」とした感じになる人も多い。
また、聞こえる声や内容は、次項の「幻聴と心理状態」で書いている心的要因によって左右されている。
こうした補完系の幻聴は難聴系でも起こる。
例えば、感音性難聴などの有毛細胞系の難聴では、部分的に聞えていなかったりしているのだが、通常は補完機能が働いて、聞えない部分を前後の文脈や状況から正しく補完されて聞えるので難聴の自覚がない。
しかし、部分的に聞えていない所が心的要因に左右されて補完されてしまうと、自分に対する悪口などに聞えてしまう。
例えば「おかあさん」の「か」が聞えず「ば」に補完すれば「おばあさん」に聞えてしまったり「空き巣とかに狙われる」の「あき」を聞き逃して補完されれば「ストーカーに狙われる」と聞えてしまったりする。
こうした聞き逃しタイプの補完とは違う補完もある。
例えばこの音声ファイル。
この音声ファイルを聞くと、しゃがれた声で「せいや」とか「そいや」とか、神輿を担いでいる時の掛け声のように聞える。
しかし実態はこれだ。
最初の音声ファイルは、この動画の音声だけを切り取った物なので、全く同じ音源なのだが、映像が付いている物と付いていない物では、同じ音源でも聞こえ方まで違う。
最初の音声ファイルが何故声の様に聞えたのか?
それが「音階」である。
言葉を含む全ての音には音階がある為、単語の音階と同じ音階の雑音があると声のように聞こえてしまう。
そして、雑音は様々な音の集合体であり、様々な音階の集合体でもある。
その音階の集合体の中から、気になる単語の音階だけを聞き取り補完する事でも幻聴は起きる。
通常は、音源の視覚情報があったり、人の目を気にしていなければ音階による補完は薄いのだが、次項の「幻聴と心理状態」で書いている状態の人はこの補完が強く出る傾向が見受けられる。
補完は聴覚に限った事ではなく、視覚でも起きる。
その片鱗を体験出来るのがこの画像だ。
リンク先の上にある12個の点は見えるのだが、その点に格子の図形が加わると視点の中心付近の4つの点しか見えなくなってしまう。
何故、そうした現象が起きるのか?
人間がハッキリと物が見る事が出来るのは黄斑の周辺であり「錐体細胞」が密集している所に映った映像だけで、それが視点だ。
その視点以外の所は、12個の点だけの画像の様に、ハッキリと見えている様に感じているが、実は然程ハッキリとは見えていない。
ハッキリと見えていると感じているのは、脳が周囲の状況から推測して補完しているからである。
それ故12個の点に格子が掛かると、錐体細胞の領域では点を認識できるが、桿体細胞の領域では認識出来ないので、周囲の情報から格子を補完してしまう為、錐体細胞の領域以外の点は見えなくなってしまう。
これが視覚に於ける補完だ。
そして、視覚の補完も聴覚と同様に心的要因に左右されて見え方が変わってしまう。
それ故、錯視の多くは周辺視野の領域で起きている場合と距離がある場合が殆どである。
また、こんな事例もある。
例えば、坂田利夫と松山千春の顔が同じ顔に見えている様な人だ。
これは、一つの目立つ特徴から顔を補完している為に起きると考えられる。
こうした人の言動は実に興味深い物がある。
坂田利夫と松山千春で例えるなら、二人の写真を並べて見比べた時に「雰囲気は違うが同じ人です」と言ったりする。
第三者が見れば全くの別人の顔が、雰囲気の違い程度にしか判別出来ていないのだ。
また、他人の何気ない行動が自分に対する加害の様に思えたりもする。
例えば、歩きスマホをしている人を見ると、自分の顔が配信されていて、自分の顔を確認されていると思えたりする。
歩きスマホをしている人は、スマホを見ている時にぶつからない様に、進行方向をチラ見したりするのだが、そのチラ見が画像と照合されているかの様に見えていたりする。
本来、誰かの行動に対する理由は本人以外誰にも分からない。
相手には相手の事情が有って行っている行動を、自分に関連させた妄想で補完さてた認知がなされているので、前方確認のチラ見が自分の顔の照合に見えてしまうのである。
そうした補完が被害妄想を確信に変えてしまう。
そして、持っている被害妄想(コンプレックス)の影響を受けた補完がなされる。
と言うより、被害妄想自体が「思考の補完」なのだ。
視覚や聴覚の補完は、見えない部分や聞えない部分を、周囲の状況から推測して補完が行われる。
妄想も原理は同じで、本来分からない部分を推測(妄想)で補っている。
幻聴のもう一つの原因が幻覚物質のアドレノクロムである。
ホッファー博士の提唱する分子整合療法によると、総合失調症の幻聴はアドレノクロムが原因物質であるとされている。
統合失調症はドーパミン過多が原因と言われており、そのドーパミンを基にしてノルアドレナリンが生成される。
そのノルアドレナリンがメチル化してアドレナリンとなり、アドレナリンが酸化する事でアドレノクロムが生成される。
このアドレノクロムは幻覚作用を持つメスカリンと同じ成分で構成されている為、同じ作用を持つとされている。
分子整合療法ではアドレノクロムがアドレナリンの酸化物質であるなら、アドレナリンを酸化させなければ良いと言う考えから、抗酸化作用のあるビタミンCやEの大量摂取や、アドレナリンの前段階であるノルアドレナリンのメチル化を阻害するビタミンB3(ナイアシン)の投与が有効とされている。
文献によると、実験で投与された量は、1時間当たりビタミンCを1000mgと書かれている。
ビタミンは大量摂取しても大丈夫な物と体調不良を起す物もあるので、医師の監修が必要である。
但し、日本では分子整合療法は認知されていない。
また、幻聴や幻覚に対する効果は記されているが、統合失調症が治ったとは記載されていない。
被害妄想を抱く人の共通した特徴は「人間不信」「社会性の低さ」があり、社会性の低さは、そのままコミュニケーションの低さでもある。
被害妄想を端的に表す言葉が「疑心暗鬼」である。
その語源は「疑心、暗鬼を生ず」であり、「暗闇と言うだけで疑い、鬼がいるかのように見える」から来ている。
被害妄想は、他人を信じずコミュニケーションが取れない為に、他人が分らない。
その分らない他人が暗鬼となり、疑心を生じている状態である。
他人が考えている事など、誰にも分かるはずも無い。
しかし、コミュニケーションを重ねる事で他人を理解する事は出来る。
逆に、コミュニケーションを重ねなければ他人を理解する事は出来ない。
そして、相手を信じて自分が心を開かなければ、相手も心を開いて本心を話さず、上辺だけの付き合いしか出来ない。
コミュニケーションが苦手で他人を信じられない人は、他人の心を想像するしかない。
人間は無から何かを生み出す事は出来ない。
必ず、ベースとなる物が必要となる。
それが、自分だ。
「自分はこう思うから、相手もこう思うだろう」と言った考えである。
しかし、それは他人の思いではなく、自分の思いでしかない。
つまり、他人と言う鏡に自分を反映させているに過ぎず、心を開いたコミュニケーションを積み重ねてこなかった人の考える他人の自分に対する評価は、自分自身の自己評価でしかない。
それが投影である。
ここにもう一つの問題が生じる。
自己評価を他人の評価と信じ込む事は、自分の考えなのか他人の考えなのかの区別が付かない状態であり、それが自他境界の曖昧性となる。
自他境界の曖昧性 は自分と他人の区別が付かなくなっている状態と言えば分かり易いだろう。
厳密に言えば、自分と自分の中で作られている他人との境界の喪失であり、自分の中で作られている他人を現実の他人だと思い込む事で自他境界が崩れて行く。
すると、自分も、自分の中で作られている他人も自分でしかないので、自分の言動や行動から思考に至るまで、自分が知っている事は自分の中の他人も知っている事になる。
それが、声として感じれば「幻聴」となり、頭に直接届くようなら「音声送信」の様に感じられ、自分の考えがダダ漏れのように誰かに伝わっている様に感じれば「思考盗聴(思考伝播)」や「サトラレ」と言う言葉になる。
そして行動を知られている、聞かれていると思えてしまうと、盗聴とか盗撮とか監視と言った言葉が出て来る。
そこには音階による補完も関係して来る。
自他境界が曖昧になっている人は、常に自分の中で作り上げた他人がいる為、雑多な音が声に補完され易くなってしまう。
その為、本来はノイズでしかない音でも、言葉として聞き取れない人がざわつくような声に聞えたりもする。
こうなると、まるで統合失調症の症状のように思われるが、初期の時点ではまだ心の問題なので病気とは言えない。
しかし、自他境界が曖昧な状態はストレスを生み、ストレスが継続すれば脳細胞がダメージを受ける事となり、脳細胞がダメージを受ければ機能障害を起して病気となる。
幻聴や被害妄想を個別に分析検証して行くと、それらが統合失調症の症状ではなく、統合失調症を含む精神疾患を引起す「要因」である事が分かって来る。
問題は、幻聴や被害妄想の原因が「投影」ならば、投薬治療では自他境界や世界観の曖昧性まで治療する事は出来ないと言う事だ。
それ故、治療の効果は期待出来ず、それが焦りとなってストレスとなってしまう。
それは疾患の原因が供給され続け、悪循環に陥る事を意味する。
そして、その要因は親が作っている場合が多く、治療以前に親の反省と改善が求められる場合が多い。
余談だが、盗聴を気にする人と気にしない人がいるのだが、両者の違いは「ありのままの自分」を認めて愛せるか、認められず愛せないかの違いである。
ありのままの自分とは、自分の長所も短所も認めた上で、その全てを受け入れて愛するという事。
短所も含めた自分を愛しているなら、短所は恥とは感じないので気にならない。
逆に、自分の短所を認められず自分の短所を愛せなければ、自分の短所を恥だと思い知られたく無いと思う。
ありのままの自分を愛せない一番の原因は、親がありのままの子供を認めずに理想を押し付ける所にある。
そして、行過ぎた教育。
子供の頃に必要なのは勉強ではなく、昔ながらの遊びで友達と遊ぶ事である。
昔ながらの遊びには社会性に必要な要素が多分に含まれており、昔ながらの遊びをして来なければ社会性が低くコミュニケーションに問題を抱える事になる。
一日は誰にも等しく24時間しかない。
その24時間を何かに特化して費やせば、別の何かを習得する時間は削られる。
こうした事を「被害妄想解体新書」で詳しく書いている。
またこの記事を読まれた方は「被害妄想は曖昧性」「騒音の無い生活騒音トラブル」もあわせて読まれる事をお奨めする。