豊洲報道に見る情報の非対称性に於ける心理

築地市場の豊洲移転問題が連日報道され、都民に不安が広がっている。

毎日のように新事実が見つかったと報道され、ついには白紙案まで浮上してきている。

この状況は集団ストーカー妄想に陥る原理と全く同じである。

なので、豊洲移転問題は集団ストーカー妄想に陥る様子を客観的に見る事が出来るので取り上げる事にした。

 

まず、豊洲移転問題に対する報道のあり方にそもそもの原因がある。

東京系の全ての放送が、同じ方向を向いてしまっているのだ。

コメンテーターとして登場する専門家の顔ぶれは、どのチャンネルも同じ、当然言っている事も同じ。

相反する意見が全く取り上げられていないのだ。

これが「情報の非対称性」と言う状況である。

情報の非対称下では「逆選択(逆選抜)」が起きる。

そして不安に火を付けられた人々は、冷静な判断力や思考力を失い感情に支配されてしまう。

そして疑心暗鬼に陥り、全てを疑いの目で見てしまう。

疑いの目を持って見れば全てが怪しく見えてしまう。

これが「信頼」を失った状態である。

信頼が失われれば、真実を話しても誰も信じようとはしなくなり、真実は疑惑の対象となってしまう。

そして、豊洲移転の問題の根底には無知と無理解があり、専門バカが拍車を掛けている。

 

それをこれから解説して行こう。

 

まず無知の問題だが、豊洲市場の地下に謎の空間があると報道された時、知っている人と知らない人では反応が異なる。

建築に造詣が有る人なら建物の下の空間と聞けば、直ぐに「地下ピット」を思い浮かべるだろう。

それは何所のマンションにも普通に存在している空間である。

なので不思議とは思わず「そんなの当たり前だろう」と思う。

しかし、地下ピットはマンションの住人と言えど立ち入る事は出来ない空間なので、その存在を知る者は少ない。

地下ピットの存在を知らなければ、建物の下に謎の空間がると聞けば、そこに疑念が生まれる。

その疑念は想像を掻き立て、隠蔽や陰謀の可能性を思い描く。

そこに地下ピットの写真が公開され、そこに水が溜まっているのを目にする。

建築中の地下ピットに入った事が有ればそれは普通の光景だが、地下ピットの存在すら知らない人からすると、水が溜まっている事が特別の事のように思えてしまい、そこに欠陥を疑い始める。

それらの疑惑が土壌汚染の問題とリンクして不安が掻き立てられる。

しかし、リンク先の画像でも分かるように、施工途中ではそれが普通なのである。

そして、現場で働く人は雨の日に水が地下ピットに流れ込む光景も目にしている。

 

問題は地下ピットに対する無知が、都民だけでなく歴代の知事や専門家会議も同じであった事だ。

建築に地下ピットがセットになっている事を知らないからこそ、地下を作るとか作らないとか言う話しが出て来る。

それは、建築物に必要不可欠な物を、そこだけ作るか作らないかの議論でしかない。

それは、スマートホンを販売するのに、液晶はガラスだから危ないので液晶を付けるか付けないかの議論をするのと同じだ。

既にそこからボタンの掛け違いが発生しているのだ。

専門家会議は土壌汚染の専門家の会議であって建築の専門家の会議ではない。

もしそこに、設計担当者が入ってるか専門家会議のメンバーに地下ピットの存在を知る者がいれば盛り土案は変わっていただろう。

設計不在の会議だからこそ、地下ピットが考慮されていない盛り土案が提案される事になる。

 

地下ピットを考慮されていない盛り土案が決まってしまうと、設計や施工は頭を抱える事になる。

少し頭を働かせて考えてみよう。

水を然程使わない施設なら配管もシンプルなので建物の中に数本通せば良いが、水を多く使う施設では多くの配管が必要になる。

もし、配管を埋設してしまえば、地震などで破損すれば復旧は困難になる。

予め空間を作りそこに配管を通せば素早く復旧できる。

地下ピットは本来そうした目的で作られる設備だ。

また。建物には必ず基礎が必要である。

その基礎は地中に作ら無ければならないので、盛り土をしても結局掘り返す事になる。

盛り土を掘らずに基礎を作ろうとすれば、当然高床式にせざるを得ない。

高床式にすると、耐震強度が低くなる。

例えば、マッチ箱を土の上に置けば風が吹いただけで倒れてしまうが、マッチ箱を少し土に埋めるだけで倒れ難くなる。

耐震はそれと基本的に同じで、地中に埋没させた方が強度は増す。

しかも盛り土は重量物が乗るのには適さない。

何故なら、土が締まっていないので重量物が乗ると沈下を起こす。

建物自体は杭で支えられているので沈下はしないが、周りの土は次第に沈下して行く。

例えば、穴を掘ってそこに砂を埋める。

その砂に水を掛けると直ぐに沈下を起こす。

これは水締めと言って、埋めた時に出来た空間に水で砂が運ばれて、砂が締まった状態になるのでこれを「水締め」と言うのだが、盛り土にもそれと同じ事が起きる。

但し、砂の様に直ぐに起きるのではなく、時間を掛けてゆっくりと進行して行く。

するとどうなるかと言えば、建物の周りの土が沈下して建物が浮いた状態になり、建物の床下と地面との間にも自然に空間が出来てしまう。

勝手に出来てしまう空間は、予測も制御も出来ない。

つまり盛り土にしても、知らない間に空間が出現し、もし地中にベンゼンが残っていたら、ベンゼンは揮発性なのでその空間に溜まる事になる。

揮発性のベンゼンは濃度が濃ければ引火もする。

土壌汚染しか知らなければ、別の危険性に気付かない。

これが専門バカによるボタンの掛け違いである。

 

一旦議会で決まった事は、現場で覆す事は出来ない。

すると、限られた状況の中で最善の方法を模索する事になる。

自然に空間が出来てしまって予測も制御も出来ないなら、予め空間を作り制御した方が合理的だ。

本来有るべき地下ピットを作れば問題は無くなる。

土壌汚染には土壌汚染対策法と言う物があり、汚染土壌との接触を遮断するため、厚さ10cm以上のコンクリート舗装または厚さ3cm以上のアスファルト舗装などを施すとなっている。

地下ピットを作ればその規定はクリアー出来る。

そして建物以外の場所は、盛り土がそのまま生かされる。

地中に染み込んだ揮発性物質のコントロールは三つだ。

大気中に自然拡散させるか、コンクリートで押さえ込むか、揮発し易い状態にしてのフィルター換気するかだ。

限られた条件下で、最善を求めればあの形式に辿り着く。

なので、建築に造詣がある人からするとあの形状はとても合理的なのだが、それを知らない人からすると「違うじゃないか」と言う事になる。

 

地下水の問題は、共産党の議員団が視察して写真を公開した事に端を発する。

ここにも無知が発生している。

建築に携わった事が無い人は、工程と言う物を理解していない。

地下ピットに雨水が溜まるのは現場では常識である。

地下ピットに溜まった水を吸い出しても直ぐに溜まってしまう。

なので、地下ピットで作業する時だけ水中ポンプを入れ、水をくみ出してから作業する。

地下ピットは主に配管を設置するスペースである。

その配管工事が終わらない限り、ポンプも排気も動かす事が出来ない。

また、配管だけでなく配線も繋がなくては動かない。

当たり前のように水が入っていれば、配線する事も出来ない。

なので、地下ピットの作業は水の流入が少なくなってから行なわれる。

また、建築中に稼動させれば電気代などの費用が発生する。

その為、地下ピットの水抜きや清掃は最終工程になる。

そうした工程も知らない議員団が疑いの目を持って、排水設備が稼動する前の地下ピットに入れば、「何だこの水は!」と言う事になる。

作業員でさえ送風機で空気を送り込みながら作業する所に、入れろと言われれば当然拒否される。

拒否されれば「何かあるに違いない」と疑いを深めてしまい「酸欠の危険がある」と言う説明も、誤魔化しにしか聞こえなくなってしまう。

そして、建築に造詣がある人が酸欠の危険があるから当然だと言えば、それを知らない人には「擁護」に聞こえてしまう。

さらに、その水のphを計って強アルカリ性を示すと、自慢げに発表する。

しかし、工事現場に溜まった水の全てが強アルカリ性なのだが、議員団はその事を知らないから騒ぎ立てる。

その姿はまるで電磁波があるべき所で、電波探知機が反応したと騒ぎ立てている集スト投稿動画と同じだ。

マスコミが地下ピットへ入り、その水に手を入れて、底に溜まった白い泥のような物をすくい上げて、何でしょう?とリポートする。

それこそが工事現場の水を一瞬で強アルカリにする原因物質なのだが、誰一人として気付かずただの泥だと思って見過ごしてしまう。

その白い泥はコンクリートの粉塵が堆積した物で、乾いていれば粉塵だが水と混じれば泥になる。

粉塵の上に水が落ちれば、その時点で水と混ざり強アルカリになる。

現場の水が強アルカリである事を知らない人達は、更に疑念を深めてその水を調べ出す。

すると、アンモニアや亜硝酸やヒ素が出て来たと大騒ぎになる。

強アルカリの水にアンモニアや亜硝酸があるのは別に不思議な事ではない。

そこにもう一つ有るべき物質が検出されていない所に、アンモニアや亜硝酸の原因がある。

その物質とは硝酸である。

植物や動物が死ぬとアンモニアが発生する。

そのアンモニアを亜硝酸菌が分解して亜硝酸塩が出来る。

その亜硝酸塩を硝酸菌が硝酸塩に分解する。

亜硝酸菌はアルカリに強く硝酸菌はアルカリに弱いので、アルカリ下ではアンモニアの分解は亜硝酸までしか進まない。

もし地下水が上がってきた水で、その水に含まれていた成分だとしたら、硝酸塩まで分解されているので、硝酸塩が検出されなければおかしい。

これはアクアリウムの常識だ。

 

水の中に何かあるかもしれないと疑い、ある物だけを調べようとすれば、無ければおかしい物に気付けない。

このアンモニア分解の原理を知っていれば、アンモニアと亜硝酸しか検出されない事が、地下ピットに溜まった水が雨水の可能性の高さを示している事に気付けるのだが、知らなければそこに疑念が生じてしまう。

 

そもそもの話だが、ベンゼンと言う物質は無極性の為に水に溶けず、比重は水よりも軽いので水に浮く。

例えば同じ水より軽いアルコールは水に溶けて混ざり合う。

その理由はアルコールが極性を持っているから水と電気的結合を起こして水に溶ける。

しかし、無極性のベンゼンは水と電気的結合を起こさないから水に溶けない。

水に溶けず、水より比重の軽いベンゼンで地下水は汚染されない。

理由は簡単だ。

ベンゼンは水より比重が軽いので地下水面より下へは行けず、水と分離する物質だからだ。

その地下水面より上の土を除去していると言う事は、理論上そこより下にベンゼンは無いと言う事である。

ベンゼンの性質を知れば、4万倍のベンゼンの意味も分かってくる。

水位より下に行けないからそこに溜まるしかない。

人はその数値の大きさだけに目が行き、ベンゼンと言う物質の性質を知ろうとはしない。

だからこそ、人の心の中でベンゼンはモンスターと化し、過剰な恐れを抱く事になる。

しかし、ベンゼンが溜まっていた土はすでに除去され、もうそこにベンゼンは居ないのだ。

残っているのはベンゼンの破片と、人の心に作られたモンスターだけだ。

集団ストーカー妄想の犯人はそのモンスターと同じなのだ。

 

こうなってしまっては、怪しい物探しが止まらなくなってしまう。

何が何でも探し出そうとする。

すると基準値以下の、地中や海水に普通に存在するレベルでのヒ素でさえ、ヒ素があると言うだけで問題になる。

検出されたヒ素の0.003mg/Lと言う数字が一人歩きしてしまう。

例えば、主食の米に含まれるヒ素は0.14mg/L、ミネラルウォーターには0.05mg/Lも入っている。

それは福島原発の事故後に、自然放射能を測定して危険だと騒いでいた集ストさんと変わらない。

専門家は雨水に含まれるヒ素ではこの数値は有り得ず、海水と同じレベルなので地下水の可能性を疑う。

更に臭素が見つかったと言い、臭素は雨水に含まれず、海水に含まれるから地下水説を有力視する。

しかし、その比較に大きな間違いがある。

雨水と言っても、雨水をそのまま容器で受けた水ではない。

地表を流れて来た水である事を忘れている。

そこは湾岸エリアで隣は海だ。

地表には海水の細かな水滴が降り注ぎ、それは壁にも付着している。

そこを流れて色々な物質を取り込んで来た水である。

それを雨水と同じと考える所がそもそも間違っている。

 

こうなってしまっては、東京都民を納得させるのは、集ストさんを説得するより難しい。

一旦植え付けられた不安は簡単には消えない。

どれほど検査数値が安全性を示していても、データ偽装を疑われ信用されない。

ここまで風評被害が大きくなっては、豊洲のイメージは地に落ちている。

これが、偏った情報で生じる「情報の非対称性」による「逆選択」の状態である。

 

もし、東京でもこの様な放送がなされていたら、結果は違う物になっていただろう。

それは集団ストーカー妄想を持つ者達も同じだ。

自分の求める情報だけを探し続ける為に、自ら情報の非対称かを招く結果を生み、逆選択を引き起こす。

 

被害妄想の系統と傾向と集団ストーカー妄想

被害妄想には病気の違いによる系統がある。

そして、被害妄想には一次妄想と二次妄想がある。

統合失調症に見られる妄想は一次妄想で、真性妄想とも呼ばれ、その特徴は「何故」が無い所にあり、了解不能な妄想の事を言う。

例えばCIAに狙われていると思っていても、何故狙われるのかが抜けている。

集団ストーカー妄想に多い「咳払いをして合図を送ってくる」と言った妄想も、咳払いを合図と思っているだけでそこに根拠は無い。

統合失調症の妄想の特徴は、ただ思えると言う理由だけで、確信している所に特徴がある。

 

二次妄想には何故がある妄想で、了解可能な妄想の事を言う。

双極性タイプは、同じ様にCIAに狙われていると思っていても、一応理由を持っている。

例えば、国家に不都合だからとか、人体実験に選ばれたとか、自分の才能や特殊技能、能力を妬まれてなどの理由が多い。

そうした理由はともかく、双極性タイプの妄想の特長は、狙われていると思う理由が選民意識を起点にしている所に特徴がある。

また、誇大妄想的特徴も持ち、妄想の中に天皇家やらフリーメイソンなどが登場したりする。

 

うつ病系はマイナス思考で、人間関係や社会的立場に起因した妄想が多い。

例えば、リストラストーカーを使って会社を辞めさせようとしているとか、悪評を立てて辞めさせ様としている等の妄想を抱く所に特徴があり、自律神経症状などの体の不調に対して過度な不安を持ち、そこから電波攻撃などの発想が生まれているケースが多い。

また、コンプレックス系の被害妄想もうつ病に多く見られる。

コンプレックス系被害妄想とは、例えば肥満にコンプレックスを持っている女性の隣に、スレンダーな人が立ったと言うだけで嫌がらせと感じたり、友人の無い人が友達と遊ぶ子供を見て嫌がらせと感じたりする。

言わば、当て付け系の妄想である。

自律神経症状を電磁波攻撃されていると思い込むのも、鬱病系の心気妄想の変化版と考えると分かりやすいだろう。

 

自己愛性人格障害系の妄想は、妄想に著名人の名前が出て来る所に特徴がある。

また、妄想の中に凡人には自分は理解出来ないと言う様な気風がある。

例えば、盗聴妄想一つ取っても「お前レベルで見つかる盗聴ではない」など、何事にも「自分は特別」と言う意識が根底にある。

 

境界性人格障害系は、手のひらを返す所に特徴がある。

例えば、集団ストーカー妄想団体を称賛していたかと思えば、その団体を成りすまし団体だと批判したり、ネットで共闘していたと思えば攻撃していたり、直ぐに手のひらを返す所に特徴がある。

また、ネット上であえて攻撃的言動や、挑発的言動を繰り返し相手を怒らせたり、あえて論議を平行線化させる事で、自分に係わりを持たせ続けようとする者もいる。

早い話が「かまってチャン」タイプだ。

 

こうした病気的な妄想の系統は、病気を併せ持っていれば双方の妄想も併せ持つ事になる。

また病気による妄想の系統とは別に、右脳系妄想と左脳系妄想の違いもある。

左脳系妄想は科学的な傾向を持ち、右脳系妄想はオカルト系の傾向を持ち易い。

 

集団ストーカー妄想は、これらの妄想の集大成的妄想で、多くの人が同じ妄想を抱く集団妄想である。

集団ストーカー妄想はネットで生まれた概念的な妄想であり、これらの妄想の集合体である。

病気毎の妄想系統とは別に、被害妄想には妄想のジャンルがある。

国家やCIAなどの秘密組織系、UFO系、リストラ工作等の工作系、近隣住民系、心霊系、宗教系、フリーメーソン・ユダヤ系など様々なジャンルがある。

インターネットが普及する前は、系統やジャンルはそれぞれが独立し、各々が独自の妄想を展開していた。

その妄想の生みの親と言うべき存在が、少年マガジン連載のMMRと雑誌ムーであり、1999年当時は全てこの雑誌に掲載されていた内容ばかりで作られていた。

熊本の地震の際に書かれた落書きの「HAARP」も出典はムーである。

それが集団ストーカー妄想の根底に今なお脈々と受け継がれている。

 

最初は個別の妄想を展開していたのだが、インターネットの普及と共に自分の妄想を主張出来るようになると、最初は同じジャンル同士が集まり出して集団化して行った。

次にジャンル毎の集団で親和性を持つ物同士の融合が始まった。

秘密組織系と、UFO系はUFOの墜落をアメリカが隠蔽して宇宙人を捕獲しているとか、すでに条約が結ばれているなどの記事がムーに掲載されていたので両者の親和性は高く、秘密組織系は工作系とも親和性が高く、それらが融合して行った。

宗教系と心霊系も親和性が高く融合し、秘密組織系と宗教系の二大妄想が形作られて行った。

因みに、雑誌ムーにはオウム真理教の空中浮遊も掲載されており、その後のオウムの一連の事件が重なり、そこから宗教団体が秘密兵器を開発していると言う発想が生まれている。

フリーメイソン系はフリーメイソンを主体に二大妄想の主張の使える部分だけ取り入れて独自進化して行ったので少し毛色が異なっている。

その二大妄想がある人物の主張によって融合される事になった。

それが、池田大作朝鮮人説である。

丁度その頃北朝鮮の同行が怪しくなっていた時期で、北朝鮮のスパイや潜水艇や拉致のニュースが大きく報道されていたので、北朝鮮と言う国家や秘密組織と、池田大作の宗教に親和性が生まれて合体して行った敬意があり、集団ストーカー妄想はそれらの妄想の集合体となっているのだ。

なので、どの系統の妄想であっても強い親和性を持っているので、集団ストーカー妄想を受け入れ易くなっている。

そこに一つ新たな問題が生じる事になる。

例えば、小説を読むと読んだ者は、それぞれのシーンを自分のイメージで思い浮かべるのだが、その小説が映画化されてその映画を見てしまうと映画のシーンしか浮かばなくなってしまう。

また、映画を見てから小説を読んでも映画のシーンしか浮かばず、誰もが同じイメージしか思い描けなくなってしまう。

これと同じ現象が、集団ストーカー妄想に起こる。

各系統の妄想者が、集団ストーカー妄想を読んでしまうと集団ストーカーにイメージが固定されてしまうのだ。

集団ストーカー妄想は各系統の妄想の集合体なので、言動も同じになってしまうので誤診を生んでしまう。

 

ASKAのブログ

ASKAのブログがネット上で騒がれている。

私がそれを知ったのは先月の初めだった。

 

それが本人の物か、それとも成りすましか、とある団体の偽装工作かは不明だ。

 

ASKAのブログに書かれている内容に、集団ストーカーだの盗聴盗撮だの書かれていると言う。

 

それが本物か偽者かに関係なく、覚せい剤には付き物の症状なので想定の範囲内だ。

なのでさほど興味は無い。

 

まあ一つ言えるとすると、集団ストーカーという言葉を使ったり、精神科の医師たちは、現代のテクノロジーについて行っていないだけと言っているらしいのだが、そっちの世界へ行ったら復帰は望めないの一言だ。

 

私の興味はASKAのブログではなく、ネットで話題にしている人達の反応だ。

その多くは「統合失調症」を疑っている。

また、集団ストーカーやテクノロジー犯罪の存在に言及している者もいる。

そしてあの団体は早速担ごうとしている。

 

私には、ASKAのブログが及ぼすそうした波及効果の方が断然興味深い。

 

因みにASKAは統合失調症ではなく、覚せい剤使用による精神刺激薬精神病だろう。

基本的に、覚醒剤は人工的に統合失調症を作り出す薬なので、症状は統合失調症と同じである。

その症状からネットで調べて集団ストーカーやテクノロジー犯罪と言う言葉を知ってしまった。

その言葉を使い始めた段階で、マインドコントロール状態となり、言動は集団ストーカー教やテクノロジー教の経典を読み上げるだけになる。

 

その経典は統合失調症を始めとする様々な精神疾患者の妄想で作られているので、統合失調症の言動と見分けが付かなくなる。

 

それは著書でも書いている事だ。

 

そんな事より、集団ストーカー教やテクノロジー教の輩が行う行動パターンだ。

今の所、いつもの様に担ぎ上げようとしているだけだ。

テク教は迎え入れる姿勢も見せているが、まだコンタクトはなさそうだ。

コンタクトがあれば、ここぞとばかりに騒ぎ出すだろう。

集スト教やテク教は、自分達の主張を信じてもらうために、ASKAと言う権威性を利用しようとしている。

奴らが騒げば騒ぐほど、それがネットで広がりASKAは偏見の目で見られる事になる。

それはブログ主の虚実に係わらず、どれほどASKAの立ち直りの障害になる事だろう。

 

 

もし本物だった場合、清水由紀子さんの二の舞にならない事を願うばかりだ。

当事者ほど真実は見えない

被害妄想解体新書」の追記に、被害妄想をコリオリの力の原理で物理的な説明を加えた。

集団ストーカーと言う被害妄想」でも書いていたが、「被害妄想解体新書」ではもっと詳細な内容にした。

集団ストーカーやガスライティングの被害に遭っていると言う人は「当事者でなければ分からない」「遭って見なければ分からない」と主張する。

しかし、コリオリの理論からすれば「当事者である限り分からない」「遭っていないからこそ分かる」それを説明出来る。

そして、コリオリの論理は、当事者が客観的視点に立つ事が出来ない事も説明出来る。

 

被害妄想とは回転する円盤の上にいる状態だ。

回転する円盤の直上に円盤から独立させて固定カメラを設置する。

これが客観的視点である。

回転する円盤の上にボールを転がすと、定点カメラはボールが真っ直ぐに進む事を観測する。

しかし、円盤の上にいる人にはボールが自分に向ってきたり、自分から遠ざかって行く様に見える。

これが被害妄想であり、主観的観測である。

客観的観測の基本は高きより全体を見通す事だ。

円盤の直上に脚立を使って定点カメラを設置する場合、円盤の上に脚立を立ててしまえば、カメラも一緒に回ってしまうので、脚立を円盤をまたぐ形で設置しなければならない。

被害妄想という回転する円盤に乗っている人が、どんなに高きより客観的に見ようとしても、円盤の上に脚立を立ててしまうので、回転する円盤から降りない限り円盤の外に脚立は立てられず、客観性は持てない。

つまり被害妄想から外れなければ客観性は持てず、どれ程客観的に見ようとしても主観的にしか見る事が出来ない。

また、被害妄想の人に近付き過ぎれば同じ円盤の上に乗る事になってしまうので、客観性は失われる。

 

被害妄想解体新書」では何故被害妄想の人は円盤が回り出すのか、被害妄想の人の感覚が何故反転するのか、どうしたら回転を止められるのかなども書いている。

他者は自分を映す鏡

他人が何を考えているのか、それは本人にしか分からない。

「私は人にこう思われている」とか、「人に嫌われている」とか「人に好かれている」と言った、自分に対する他人の思いとして感じる事は、全て自分の考えでしかない。

それは他人に自分を投影して見ているに過ぎない。

つまり、他人とは「自分を写す鏡」であり、自分の中で作られた他人でしかないのだ。

長所も短所も含めた「ありのままの自分」を愛し受け入れられる人は、他人に写る自分も肯定的に写るが、ありのままの自分を愛せず受け入れられない人は、他人に映る自分の姿が否定的に写り、その人にさも嫌われているように思えてしまう。

その他人に写った自分の姿を、実際の他人の姿だとだと思い込む所に「自他境界の曖昧性」が生まれる。

それは実際の相手の自分に対する思いではなく、自分の自分に対する思いでしかない。

つまり、他人と言う鏡に映った自己評価を見ているに過ぎない。

それを、相手の思いとして思い込んでいるからこそ、自分と他人の境界が曖昧になっている状態なのである。

また、ありのままの自分を受け入れられず愛せない人は、ありのままの自分に嫌悪を抱き、理想とする自分を演じようとする。

故に、現実の自分を突き付けられても、受け入れる事が出来ない。

すると、受け入れられない自分(コンプレックス)を相手に投影し、投影した相手を嫌悪する事で自尊心を守ろうとする。

分かり易く言えば、他人を悪者にすれば自分は被害者になれる。

被害者でいる限り非は相手にある事になり、自分に非がある事を認めずに済む為、自尊心が守られる。

故に、自分が不遇である責任を他者や社会に求め、自分を変えようとはしない。

自分を変える事は嫌悪する自分を認める事にり、自尊心が傷ついてしまうので受け入れられないのだ。

故に集団ストーカー被害などの被害妄想を主張する人達は、病気を否定し病気である事を認めようとはせず、病気や治療の話をされると自尊心を守る為に猛然と抗議する。

(病気と診断される事は、現実の自分を突き付けられる事になり、治療で治す事は自分を変える事になる)

また、治療を受けている人も治療だけに頼り、自己改善をしようとはしない。

それは一種の依存である。

そうした感覚を生み出す原点となるのは、ありのままの自分を認められずに育てられた家庭環境が多大である。

故に、被害妄想を持つ者の血縁家族も、医師などの専門家に丸投げ傾向を持つ場合が多い。

そこに「共依存」が見え隠れしているケースも少なくない。

間違えてはならないのは、ありのままの自分を認められないとは、単に否定されて育つ事を意味している訳ではない。

ありのままとは、過大評価も過小評価も無い正当な評価を意味する。

自他境界が曖昧になると、自分と自分の中の他人の区別が付かなくなる。

その結果、自分が知っている事は自分の中の他人も知っている事になる為、他人に知られていると感じ始める。

すると、最初は盗聴、盗撮、監視されていると思い始め、曖昧度が増して来ると幻聴が聞こえたり、相手の考えが伝わってくるように感じたり、自分の考えが他人に筒抜けの様な感覚に襲われる事となる。

その感覚は先入観を生み視覚や聴覚にも影響(補完)を与える。

自他境界の曖昧性により被害妄想に陥っていれば、他者の言動や視線を異常に気にし始める。

すると脳は、自分に対する悪口などを聞き漏らさないように過敏に反応する。

すると、些細な音を悪口のような声に脳が変換してしまい、悪口として聞えてしまう。

視覚も同様に怪しくも無い人が、さも怪しげに見えてしまう。

それが「疑心暗鬼」であり、疑心暗鬼の語源である「疑心、暗鬼を生ず」の由来でもある。

つまり、被害妄想を持つ人の「悪口を言われた」とか「怪しい人の怪しい行動」も、他人に写った自分の心が生み出した産物でしかない。

自分の感じる世界とは、自分が認識している世界観で作られている。

それは、自分の認識が変われば感じる世界も変わるという事でもある。

>被害妄想に関してはこちら

幻聴に関してはこちら

被害妄想は曖昧性

被害妄想や集団ストーカー妄想について調べを進めて行くと、最終的に「曖昧性」に辿り着く。

現実なのか非現実(妄想)なのか、自分に向けられた言動なのか他者に向けられた言動なのか、自分なのか他人なのか、有るのか無いのか、受動なのか能動なのか、被害妄想を抱く者はそうした感覚が実に曖昧になっている。

誰かが自分の悪口を言っていると感じる、誰かに狙われていると感じる、盗聴や盗撮されていると感じると言った類の被害妄想は「自他境界の曖昧性」によって発生する。

(詳しくは被害妄想解体新書を参照

それと同じ様に、被害妄想には「現実と非現実(妄想)の曖昧性」が存在する。

被害妄想に於ける現実と非現実の曖昧性が発生する最大の要因は「調べる」と「確認」の混同であり、それも一つの曖昧性だ。

インターネットでは色々な事が検索すれば調べられる。

しかし、どれ程ネットで調べたとしても、書物を読んだとしても、それは実際に自分で経験して確認した訳では無い。

自分の経験や体験による検証が伴っていなければ、頭の中だけの事なので妄想と変わらない。

被害妄想を持つ人にはそうした確認作業が欠落しているのだ。

ネットで検索して調べ、ネットで確認したから間違い無いと思っても、それは確認では無い。

ネットで著名人と言われている人が現実社会でも著名人とは限らない。

ネットニュースで書かれているからと言って現実とは限らない。

またネットニュースを書いている人自体がフェイクニュースを鵜呑みにしてたりする。

ネットの多数意見が現実の多数意見とも限らない。

 

内部告発や暴露も実際の所、何所までが真実なのかは分からない。

特許申請や論文がネットに掲載されているからと言って何の根拠にもならない。

何故なら、似非科学でも妄想科学でも申請だけなら審査が無いので何でも受理され掲載はされる。

しかし、本登録になると審査があるので落とされる。

そうした不確実な物を信じてしまうと、そこに現実と非現実の曖昧性が生じて、非現実を現実だと思い込んでしまう。

そしてその思い込みが、見える世界を色眼鏡で見せてしまう。

 

こうした事はインターネットだけの話ではなく、噂を信じてしまう人も同じだ。

災害の時に出回る「デマメール」を鵜呑みに信じて友人知人に送ってしまう人も、振り込め詐欺に引っかかる人も「確認」作業が抜けている。

振り込め詐欺を例に説明しよう。

振り込め詐欺の第一段階は、息子を装う犯人から「俺だけど」と電話が掛かって来る。

その時には、殆どの人は声の違いに気付いているのだが、風邪で声の調子が悪い等と言って誤魔化し、電話番号が変わったので登録し直してと伝えて来る。

この時に、登録せずに以前から登録してある息子の電話に電話して確認すれば簡単に見抜けるのだが、確認せずに息子として登録してしまうと、次に犯人から電話が来ると息子の名前が表示されてしまう。

息子の名前が表示された電話に出ると、犯人の声を脳が勝手に息子の声に補完してしまうので引っかかってしまう。

振り込め詐欺で息子を名乗る犯人の話す世界は「非現実」なのだが、それを現実だと思い込んでしまう。

これも「現実と非現実の曖昧性」であり、犯人の声が息子の声に変換される事が「色眼鏡」となっている。

 

振り込め詐欺に引っかかる原理と集団ストーカーを信じてしまう原理は同じなのだ。

 

被害妄想を抱く人達は、イジメや嫌がらせを受けていると言う。

しかし、感じる、思える、と言うばかりで確認はしない。

当人からすれば、自分が感じているから間違いではないと確信している。

しかし、相手の真意を聞くに至る人はまずいない。

聞いたとしても、犯人扱いして聞く事で、相手が動揺したり反発したりする。

その動揺を見て「見破られてうろたえている」と思ったり、反発を「誤魔化そうとしてる」とか思ったりする。

それも色眼鏡でしかなく、他人と言う鏡に映った自分を見ているに過ぎないのだ。

最初から相手を疑って聞けば、相手がどんなに「知らない」と言っても信じる事が出来ないのだ。

そして、相手が否定すればするほど疑いは深まる。

 

世界観と言う物を考えてみよう。

世界観は家に例えると分かり易い。

家を作る時、最も大切なのは「同じ尺度」で建てる事だ。

もし、異なる尺度で建てれば歪な家となり、歪な家は崩壊してしまう。

例えば、図面の寸法に5としか書いてなかったとしよう。

そして、左右の柱や梁を手掛けるのは異なる国の人なら、尺度はそれぞれの国で使っている尺度で考えてしまう。

すると、右の柱が5M、左の柱は5インチ、左の梁は5尺、右の梁は5ヤード。

左右の柱、左右の梁が全て同じ尺度であれば立方体の建物が出来るが、尺度が全て違えば建てる事すら儘ならない。

ネットで調べたり、書物を読んだり、テレビで見た情報を鵜呑みにして世界観を構築すると言う事は、異なる尺度で家を構築するのと同じである。

ネットに書かれている事は書いた人の尺度で書かれており、それは書物もテレビも同じだからだ。

そうした異なる尺度には「換算」が必要になる。

その換算は、自分の足で歩き、自分の手で触り、自分の目で確かめなければ出来る物ではない。

例えば、小学生の頃には広く感じた校庭が、大人になってから見ると然程広く感じない。

それは自分の身長や歩幅が変わり、スケール(尺度)が変わったからである。

そして歩幅は人それぞれ違うので、感じ方も人それぞれ違うのだ。

子供と言う小さな物差しがそのまま成長すれば、物差しに刻まれている目盛りは間延びする。

そんな物差しでは世界を正確に測る事は出来ない。

常に目盛りを更新し続けていなければ正確には測れない。

その更新や換算が経験や体験である。

自己愛性パーソナル障害と言う病気がある。

その発症要因は、親に認められず育つか、貴方は特別と過保護で育つかの真逆の要因で発症する。

何故真逆の要因で発生するのか?

この二つに共通するのが「物差し」である。

正当な評価をされて育てば、物差しの目盛りは正しく刻まれるが、正当な評価を受けずに育てば狂った目盛りが刻まれる。

その狂った目盛りの物差しを持っているから病気なのだ。

 

言葉は、自分が見た物、感じた事、様々な体験を他人に伝え、その話を聞けばその光景を思い浮かべ、自分で経験して無い事を、さも自分で体験したかのように感じる事が出来る。

しかし、それはあくまでも他人の経験であって自分の経験ではない。

そこにスケールの違いが有ることに気付かず、ネットや書物で得た知識で世界観を構成していれば、歪な世界観を持つ事になる。

しかも、ネットや書物には都合の悪い事は書かれていなかったり、歪曲して書かれていたりする。

そうした事を知らずに鵜呑みに信じてしまえば、歪さに拍車が掛かる。

歪な世界観の中にいると言う事は、何時崩れるかもしれない不安定な家に住んでいるのと同じである。

故に、何時崩れるかも知れない不安に襲われ、多大なストレスを継続的に受け続ける事になる。

不安とは「身に危険が及ぶかも知れない」と思える時に発生する。

「かも知れない」を分かり易い言葉に直すと「闇」であり、「疑心暗鬼」の語源が、不安と言う物を的確に表している。

疑心暗鬼の語源は「暗闇と言うだけで疑い、鬼がいるかのように見える」と言う意味である。

つまり闇とは未知であり、知らない、分からないと言った意味である。

つまり、未知だからこそ危険が潜んでいないかが不安となり、知っていれば不安にはならない。

だからこそ、不安に駆られると自分にとって未知なる物や未知なる世界を疑い、知りたい衝動に駆られてそれらを調べてしまうのだ。

しかし、経験の伴わない知識を集めれば集めるほど世界観は歪になり、そんな世界観の中で過ごしていれば継続的にストレスを受ける事となる。

経験のある事なら必要以上に考えないが、経験も無い事をあれこれ考えると不安が不安を呼び、際限なく考え続けてしまう事になる。

そして何より、疑いを持って調べると言う事は、疑いを晴らす情報には目もくれず、疑いを深める情報しか集めようとはしなくなる。

そこに情報の非対称性が生まれ逆選抜の状態に陥る。

その逆選抜で構築された世界観こそが継続的ストレスの温床なのだ。

 

そして、その継続したストレスにより脳細胞がダメージを受けて、鬱病や統合失調症などに代表される精神疾患を発症する。

そう考えると、インターネットの普及率の推移と精神疾患の発症率の推移が重なっている事の因果関係を理解できるだろう。

 

例えばそうした世界観を「盗聴」の世界観で具体的に説明しよう。

実際の盗聴器を見た事も触った事もない人の持つ盗聴に関する知識は、主にTVやネットで言われている事だけで世界観が作られている。

そうした世界観では、さも盗聴が日常的に横行している様に思われている。

 

TVの盗聴特集などは我々専門家が見れば一目で嘘だと分かるのだが、鵜呑みにしている人は気付けない。

ネットでそれを嘘だと指摘すれば「お前とはレベルが違う」とか言われたり、「出演者に対するやっかみ」だと言われたりする。

しかし、それはレベル以前の問題なのだ。

では、何故一目でわかるのか?

簡単な事だ。

テレビに嘘が堂々と映り込んでいるからである。

しかし嘘が堂々と映り込んでいても、殆どの人は全く気付けない。

それが分からないと言う事は、現実の事は何も知らず嘘を見抜けないと言う事だ。

言い方を変えると、何も知らないからテレビの嘘やデマカセが見抜けず、TVと言う「権威性」で信じてしまうのだ。

そして鵜呑みに信じた人達が、ネットで声高に危険を指摘して拡散し、拡散した事で、さも多数意見かの様な錯覚に陥り、不安な社会を作り上げて行く。

その拡散した人達の多くに悪意は無く、善意で行っているから始末が悪い。

 

この盗聴の世界観と同じ様な世界観を植え付けられてしまったのが豊洲市場の問題である。

植え付けられた先入観の一番厄介な所は、一度先入観を持ってしまえば、全てが怪しく思えてしまう事だ。

例えば豊洲市場の問題でも、一旦疑いの目を持ってしまうと、過ちを正す意見が擁護や言い訳にしか受け取られず、全体の風向きが変わるまで聞く耳は持たれなくなってしまう。

そして、疑惑を指摘し追及する者は称えられ支持を集め、更なる疑惑を探し出し追及しようとする。

しかし、それは当たり前の事を知らないが故の疑惑でしかなく、その為に何億もの税金が無駄に消える事になる。

そうした観点を持って見ると、税金の無駄遣いを無くそうと声高に支持を集めた人が、最も税金を無駄に使っている事が見えて来る。

それも一つの逆選択である。

 

一旦先入観を持ってしまうと、その先入観に支配された見方しか出来なくなってしまう。

それこそが歪な世界観である。

そして、植えつけられた先入観は簡単には消えず、歪な世界観から受けるストレスが精神を蝕んで行く。

精神疾患を発症するだけならまだ良い。

ストレスは自律神経のバランスを崩し、その延長線に精神疾患が有るのだが、その不安な状態が続くと死の危険性が高まってくる。

自律神経は心臓も司っている為、心不全を起す確率が高まり、免疫力の低下から発ガン率も上がる。

 

ネットで集団ストーカーだと騒ぎ、集団ストーカーがさも実在するかのように吹聴する事は、信じた人を死に追いやる事にもなり兼ねない。

また、集団ストーカーを信じ続けている人は、死の危険が高まっている事を自覚した方が良い。

 

こうした世界観は人間関係も同じだ。

例えば、調査依頼者や相談者からよく耳にするのが「あの人は電気屋だからそれ位出来る」とか「あの人はパソコンに詳しいからそれ位出来る」と言った言葉だ。

それらはイメージで言っているだけで、過大評価した妄想上の相手でしかないのだが、それを現実の相手だと思い込んだり、気遣いをハラスメントと思い込んだりして勝手に敵対視して不安に怯えている。

それは風車を巨人と思い込んで戦いを仕掛けるドン・キホーテと同じである。

そこに現実と妄想の曖昧性が生じ、同時に自他境界の曖昧性も生じる事になる。

 

幻聴や被害妄想を研究して来て分かった事がある。

それは幻聴も被害妄想も同じ機能によって起こっている。

それが「補完」だ。

補完とは、見えない部分や聞えない部分を周囲の状況から判断して補う機能である。

被害妄想も、分からない部分を状況から判断して補われる思考の補完である。

 

 

幻聴に関してはこちら

とある集団ストーカー系の団体に対する告発メール

 

ある方から、集団ストーカー系の団体の内部告発のメールを頂き、掲載の了解も頂きましたので転載いたします。

 

———ここから——–

 

古牧様

集団ストーカー・テクノロジー犯罪被害解決を標榜する被害者団体の問題点。というテーマでお話をさせていただきたいと思います。
主にNPOでの体験を基にしていますが、NPOだけの問題ではなく、被害者団体全般に言えることかもしれませんので、表記を被害者団体としています。その点お含みおきください。
また私は今でもテクノロジー犯罪というものが、あり得るのかもしれないな。というスタンスですので、古牧さんと認識のズレがあるかもしれません。

以下、とても硬い口調で述べ立てていますが、要は「結局NPOって表面は疑似科学で内情はカルト教団だった、このペテン師どもどうしてくれようか。」というようなお話です。
心の病のカテゴリについての知識が乏しいものですから、お見苦しい点が多々あることを、あらかじめお詫びいたします。

1 被害者団体は妄想性障害の発症者と彼らの主張する(被害者)との区別が出来ない。全て(被害者)として一括りにしていること。
(この質問をNPO理事長にぶつけると「私の長年の経験で判断した。」と逃げられる。基準はあっても彼の感覚的な事であって、とても公にできる性質の代物では無いだろう。)

2 このような事情で妄想性障害者と一般人が混在している状態で、様々な危険が想定されるにもかわらず、問題に対処すべきメンタルヘルスの取り扱い専門家がいない。というより精神医学に対する不信感ばかりが先行し、そのような発想自体が無い。

3 被害者団体は妄想性障害なのか(被害者)なのか定かならぬ人物の発言を全てリアルに発生したこととしてしまう傾向がある。現実との明確な区別ができていない状態だ。

4 妄想性障害者あるいは(被害者)が、被害者の集いで情報交換をすることにより自らの妄想に気が付くことなく、さらに妄想を強固にして現実とのズレ、誤解を修正する機会を無くしていること。

5 このような経緯で深刻な妄想性の障害者も同然となった人たちが中心となり、自分たちの主張を認めない一般市民を猜疑視し、ついには敵対行動を集団によるハラスメント行為という形で組織的に行うに至ったこと。
(ここに述べる猜疑心・敵愾心がどのようなものかは彼ら被害者のつづる被害者ブログを参照すれば観察することができる。)

※集団によるハラスメント行為とは具体的には彼ら(被害者)の主張する(集団ストーカー被害の)真似事だ。
中でも悪質なのは、ハラスメント行為を行う(被害者)が実際に発する罵詈讒言までも(脳内送信被害=幻聴被害)だとして誤魔化す行為だが、彼らにとっては正義の行いなので当然許されるべきだという理屈らしい。

自家撞着もはなはだしいことであるが、彼らにとっては集団ストーカーに対する防衛策であり報復なのだという固い信念があるようだ。

6 猜疑視、敵対行動(組織的ハラスメントという手段の精神的リンチ行為)の対象は彼らの同士たるべき被害者団体の加入者にも及んでいること。
これは(被害者)の主張する(なりすまし被害者)(工作員)なる存在を極度に恐れることから、その見極めの為と称して行われるのだが、その実態はお粗末で、意見の相違がある。気に喰わない。といった単なる人間関係上の不和を(なりすまし被害者)(工作員)問題にすり替えたものだ。

(被害者)として被害者団体に加入してくる人は心神耗弱状態にあることが多く、精神的リンチにより、たやすく屈服したのちに言いくるめられ、集団ハラスメント行為の手駒として利用されるか、口止めを強要されることになる。要はマインドコントロールだ。

被害者団体の本質がカルトも同様であると認識した時点で逃げだせばよいだけの話に見えるが、彼ら(被害者)にとっては被害者団体が最後のよりどころと映り、またそのように心理誘導される為、よほど自立心旺盛な人でなければ逃亡は困難な模様だ。

妄想に駆られた(被害者)の敵愾心にさらされる危険は(被害者)宅周辺の住民のみならず、(被害者)自身の家族や被害者団体の立ち寄り先、主に被害者集いに利用される公民館職員、公民館を利用する他の市民・被害者集いの二次会に使用される飲食店などに波及しており、問題は被害者団体内部で収まる性質のものではない。

※(被害者)宅周辺住民の危機は、淡路島 洲本の一家殺害事件を参照されたい。

7 (略)、その狂気の伝染力の強さ、あまりのモンスターペイシェントぶりに手が付けられない状態だった。
(放置すれば、尼崎で発生した角田美代子を主犯とする事件がさらに拡大した形で再現されることになると推測される。)

8 団体指導者はこのような者たちを掣肘できないばかりか、むしろ共謀関係にある。NPOにおいてはそうであった。

9 彼らは気に入らない人への復讐代行サービスを疑似集団ストーカー行為で粘着ハラスメントを行うという(特典)まで提供していた。
これを集団ストーカー妄想におびえる人々への求心力としていた反面、そのような強権を任意発動できるぞ。というデモンストレーションともなり、ハラスメント参加者への批判を力ずくで抑え込むのに一役買っていた。

以上が3年余りにわたって、NPOの内部事情を観察した結果をまとめたものですが、これはまだ概略の段階です。一読して疑問点がたくさん生まれるだろうことは承知しておりますので、ご遠慮なくお尋ねください。

あまりの馬鹿々々しさに私がNPOの集いに出席しなくなってから1年ほど経過しましたが、他人を騙しコントロールすることに一旦味をしめた彼らが、そうそう簡単に反省して態度を改めて、健全なNPO経営を行っているとは考えにくいです。
(信用できる被害者コミュニティ)と(恐ろしい外界)とを本能的に分けたがるカルト気質は何も変わってはいないでしょうね。

彼らには彼らなりの言い分があるでしょうが、(被害者)が医療機関や公的機関で相手にされず、いわば最後のセーフティネットとして藁をもすがる心境で頼るNPOにこのような一面があることは、彼ら(被害者)の精神安定上きわめて深刻な悪影響を及ぼしていると断定せざるを得ません。

私の希望としましては、彼らが一大カルト勢力として社会に猛威を振るう前に、司法からの命令で活動禁止・解散まで執行されるべきであると考えています。

 

——- ここまで——–

この告発文が、集団ストーカーと言う物に対する救いを、そうした団体に求めようと思っている人の、一つの判断材料になればと思い許可を得て掲載する事にいたしました。

 

 

 

 

「被害妄想解体新書: 被害妄想を知り克服する」の概略

被害妄想解体新書: 被害妄想を知り克服する」は、被害妄想は持っているが発病に至っていない人や、治療を受けていても被害妄想が無くならない人向けに書いた本です。

何故、被害妄想が生まれるのか、何故治療を受けても被害妄想が無くならないのか?

被害妄想を単なる妄想とか、病気の症状だと思っている限り、まず無くならないでしょう。

 

そもそも、被害妄想とは何か? 被害妄想は何故生み出されるのか? そのメカニズムを知らずに治そうとしても治るはずもありません。

逆にメカニズムを理解すれば、何処をどのように改善したら良いのかが分かります。

被害妄想は「疑心暗鬼」です。

疑心暗鬼は病気ではありません。

しかし、疑心暗鬼は不安を生み、その不安が病気を発症させる原因になるのです。

その疑心暗鬼は何故生まれるのか?

疑心暗鬼の語源は「疑心、暗鬼を生ず」です。

疑心暗鬼を生ずとは、疑いの心をもって見ると、なんでもないことでも疑わしく見えてくるということのたとえです。

つまり、疑う心。

自分を疑う、他人を疑う。

その疑う心が何故生まれるのか?

その原点に戻り、そこから改善しなければ疑心は消えないのです。

病気は治療で治せても、疑心の改善は出来ません。

「被害妄想解体新書: 被害妄想を知り克服する」は、その疑心を改善する事を目的として書いた本です。

 

 

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被害妄想解体新書: 被害妄想を知り克服する

うつ病や統合失調症の治療を受けても被害妄想が無くならない、この本はそんなお悩みをお抱えている方の為の本です。
治療を受けても被害妄想が無くならないのは何故でしょう?何故 被害妄想は起きるのでしょうか?そもそも被害妄想は病気の症状なのでしょうか?
治療を受けても被害妄想が無くならない方は、そこから見直すべきではないのでしょうか?
この本は、被害妄想が何故起きるのか、何をどうすれば被害妄想が消えるのかを書いています。
被害妄想でお悩みの方は、ぜひ一度ご覧ください。

客観視を取り戻す為に

被害妄想に陥っていると、客観的な判断力や思考力が失われ、全てに於いて主観的になってしまう。

一旦客観視を失い主観的になってしまうと、客観視を取り戻す事は容易ではなくなってしまう。

主観的になってしまった人に、客観視を取り戻させる為の有効な手段が「他人の振り見て我が振り直せ」である。

被害妄想に陥っている人は、自分がサスペンスドラマの主人公にでもなったような感覚を抱いている。

しかし、同じ様な被害妄想を抱いている人を見た時には、意外と客観的に見られる人も多い。

同じ様な被害妄想を抱いている人の行動を愚かしく滑稽に感じれば、自分も他人から見れば同じ様に見えていると理解させれば客観視が戻り易くなる。

つまり、サスペンスドラマの主人公になりきっている人に羞恥心を芽生えさせるのだ。

それを意図して書いたのが「電波な人々」と「電波な人々Ⅱ」だ。

しかし、この2冊は文章だけで伝えている為、文章を読んだイメージはそれぞれ異なってしまう。

イメージの相違は共通認識の相違であり、共通認識が違えば意思の疎通は図れない。

この、話し手と聞き手のイメージの相違は、被害妄想の解消に於いて大きな障害となる。

そこで、新たに書いたのが「電波な人々Ⅲ」だ。

この著書は、youtubeに投稿されている動画にリンクして、何をどの様に勘違いしているのかを解説する形にしている。

言葉による伝達はイメージの相違を生じ易いが、映像での解説はイメージの相違を解消して共通認識を得られ易く、客観視を復活させる為には有効な手段である。

例えば「電波な人々Ⅲ」でリンクを貼っている動画に、電磁波過敏症のテレビニュースをUPした動画がある。

その中に、帽子の中にアルミ箔を貼り電磁波対策をしている人の映像がある。

何の説明も無ければ、アルミ箔は電磁波を遮断すると思って納得して見てしまうだろう。

しかし、アルミ箔を貼った帽子で電磁波の影響が少なくなったと言っている時点で、電磁波過敏症では無い事を証明しているのだ。

何故なら、アルミ箔は電波を遮断する事は確かだが、電波を受信もしてしまう。

電波の受信は金属で出来ているアンテナで受信する。

「帽子の中にアルミ箔を貼ってかぶる」と言う事は、帽子の中にアンテナを設置していると同じ事だ。

アルミ箔なので受信面積が広く、より多くの電磁波を受信してしまう形状になっている。

しかも、そのアルミ箔は頭に密着しているので、受信した電波を体に直接流している状態になっている。

電磁波を集める帽子をかぶって症状が和らぐのであれば、電磁波過敏症では無いと言う事だ。

 

その映像を、こうした理屈を知っている人が見たら、実に馬鹿げた主張にしか聞えない。

番組自体は大真面目な番組だけに、馬鹿げた行為を大真面目にやっている姿が滑稽に見える。

その感覚を体験させれば、初期段階なら客観視を取り戻せる。