集団ストーカー妄想は治療で治す事が困難な理由

洲本で発生した事件」で、「妄想性障害との診断を受けて治療してもマインドコントロールを外さない限り良くなる事はない。」と書いた事に対する質問メールがあったので、ここで書こうと思います。

ご質問内容は「集団ストーカー妄想は病院で治療を受けても治らないのでしょうか」と言った趣旨の内容でした。

 

それが単なる被害妄想であれば、投薬治療で不安を抑えれば被害妄想も薄れて来ます。

しかし、集団ストーカーと言うマインドコントロールに陥っていれば、投薬治療だけでは被害妄想を消す事は困難です。

 

そもそも、集団ストーカーなる物は、妄想とは少し様相が異なります。

集団ストーカー(ガスライティング)13年間の研究レポート」に掲載しているマジックドラゴンの映像を一度見てください。

この映像のマジックドラゴンは単なるペーパークラフトなので動くはずもありませんが、誰が見ても首を振って自分を見続けるように見えます。

これは妄想でしょうか?

妄想ではなく、確かに首を振っているように見えるので、それは妄想ではなく現実です。

実はこれ、妄想ではなく「錯視」が起きているのです。

つまり、集団ストーカーとは妄想ではなく、このマジックドラゴンの映像と同じ「錯視」なのです。

ですので、実際には「集団ストーカー妄想」ではなく、「集団ストーカー錯視」と言った方が現実に即しているのです。

 

例えば、洲本事件の平野容疑者が海で溺れていたとします。

溺れている平野容疑者を助けようと、洲本事件の被害者が手を差し伸べたとします。

集団ストーカーで電波攻撃を仕掛けて来ると思い込んでいる平野容疑者が、集団ストーカーの犯人と思い込んでいる人から差し伸べられた手を見てどう思うでしょう?

助けようとする手に見えるでしょうか? それとも突き放そうとする手に見えるでしょうか?

恐らく自分を突き放して殺そうとする手に見えて(感じて)しまいます。

 

では何故、自分を突き放して殺そうとする手に見えてしまうのでしょうか?

それがマジックドラゴンと同じ原理なのです。

マジックドラゴンの映像が首を振り自分を見続けているように見える原理は、凹凸の逆転です。

通常凸ている所が凹んで入る為に、脳が凹んでいる所を凸と認識してしまう為にこの様な錯視が起きるのです。

溺れている例も、これと同じ「反転の原理」なのです。

 

では集団ストーカー妄想に陥っている人は、何が反転しているのでしょう?

それが「信頼と不信」です。

他者を信頼していれば、差し伸べられた手は自分を助け様とする手に見えますが、他者に不信を抱いていれば自分を突き放そうとする手に見えて(感じて)しまうのです。

その為、集団ストーカーの被害を主張している人は、例外なく感覚が反転しているのです。

例えば「防犯パトロール」などの見守り活動が「監視活動」に見え(感じ)、気遣いや思いやりが「ハラスメント」になり、善意を悪意に感じ、人間にとって敵意の無い事を表す笑顔を敵意と捉え、自分との関連性の無い物に関連性を持って感じてしまうのです。

錯視により実際にその様に見えたり感じたりしているのですから、それは考想による「妄想」とは異なります。

また、見えている物の認識にも問題を感じる事が多々有ります。

例えば何処にでも先回りして監視している人の証拠写真と言って見せられた写真が、私が見るとまったくの別人なのですが、その人には同じ顔に見えていたりします。

それは坂田利夫の顔が松山千春に見えている状態で、特徴的な類似点「音韻修復」と同じ原理で顔を補完して見せていると考えられるのです。

錯視に対して妄想の治療やカウンセリングを行っても、根底が違っているのですから効果は期待出来ませんよね。

 

その錯視を引き起こしているのが、集団ストーカーと言うマインドコントロールなのです。

集団ストーカーと言う概念は、他者に対する不信を植え込み錯視を起させる概念なのです。

とは言う物の、普通の人は集団ストーカーなどと言う概念を知っても、どこぞの異常者が妄想で書いた物としか思えない内容です。

参項リンク(集団ストーカー、ガスライティング、ギャングストーキング、電磁波犯罪、テクノロジー犯罪は全て同意語です)

リンク先の注意:これは数ある集団ストーカー妄想の一系統にしか過ぎませんし、書いてある事は何処にでもある日常です)

 

その異常者としか思えないと思っていた人ですら、条件さえ揃ってしまえば陥ってしまうのが集団ストーカーと言うマインドコントロールなのです。

その要因やメカニズムはかなり複雑ですので、それは著書をご覧ください。

 

錯視を引き起こさない様にするには、マインドコントロールを外すしかありません。

これは容易な事ではありません。

集団ストーカーの被害を主張する人の脳は不安に支配されており、その不安は扁桃体より発しています。

どれほど言葉を尽しても、扁桃体から生じる不安には勝てません。

扁桃体に言葉は通じないのです。

集団ストーカーと言うマインドコントロールが無ければ、投薬治療で不安を抑えれば必然的に被害妄想は薄れますが、投薬で不安を抑えても見えている世界が自分に危害を及ぼすように見えていれば不安は消えません。

不安とは漠然とした物なので明確な物は何も無く、単に不安に感じているだけですので、不安が薄まれば必然的に感じ方も薄まります。

それが投薬治療の効果です。

 

しかし、集団ストーカーと言う概念を植え付けられてしまうと、漠然とした物が明確になり、不安が恐怖へと変わります。

分かり易く説明すると、不安とは暗闇の中に何かが潜んでいると感じて怖がっている状態で、不安が消えるという事は暗闇に照明を付けて見えるようにする事です。

怖がっていた暗闇が明るく照らし出され、そこに何も潜んでいない事が分かれば怖さは薄れます。

そうした不安に対し、恐怖は暗闇が明るく照らされて見えるようになった時、そこに猛獣が潜んでいたような状態です。

これでは投薬治療で不安が和らいでも、恐怖が消える事はありませんよね。

つまり不安とは「暗闇の中の手探り状態」であり、恐怖とは「明確な脅威に対する恐れ」と言う違いになります。

集団ストーカーと言う概念は、暗闇の中に猛獣を見付けさせる概念なのです。

暗闇の中に猛獣を見付けさせられていたら、投薬治療で暗闇が明るく照らされても恐怖が消える事はないのです。

問題はどの程度集団ストーカーのマインドコントロールの影響を受けているかです。

これは、その人に元々備わって行った他者への信頼度(社会性)により個人差があり、その個人差は乳幼児期から青年期までの家庭環境によって変わります。

 

この不安と恐怖の違いがマインドコントロールに陥る原因の一つでもあるのです。

不安とは漠然としており「お化け」のような物で掴み処がありません。

すると不安を抱えている人は不安を払拭しようと、糸口を探そうとします。

集団ストーカーと言う概念はその糸口なのです。

集団ストーカーと言う概念で糸口を掴み相手が明確になる事で、不安が恐怖に変り「不安が解消される」のです。

違う表現をするなら、目標や仕事も持たずに将来に不安を感じていた人に、目標や仕事が出来て将来に希望を持ったような物です。

集団ストーカーと言う概念は、集団ストーカーの被害を主張する人にとっては希望ですので、集団ストーカーと言うマインドコントロールを外そうとする事は、その人の希望を奪う事でもあるのです。

希望を奪われる事は誰でも嫌ですよね。

その為、集団ストーカーと言う物にに捕らわれている人は、治療の先の自分が分からない為に治療に不安を抱き、集団ストーカーと言う希望にしがみ付こうとするのです。

これも感覚の反転ですね。

そうした集団ストーカーによる感覚の反転を是正する方法は、投薬治療ではなく「他者に対する信頼」を芽生えさせる事なのです。

 

 

集団ストーカー(ガスライティング)13年間の研究レポート

※ 電子ブック「被害妄想解体新書: 被害妄想を知り克服する」アマゾンにて販売中!

集団ストーカー(ガスライティング)13年間(平成23年現在)の研究レポート
かつてはネット限定だった集団ストーカーやガスライティングと言う言葉が、マツダ工場暴走無差別殺傷事件等で新聞にまで使われるようになって来た。

初めて集団ストーカーやガスライティングと言う名称を聴く人には、それが何なのか分からないだろう。

そこでこのページも少し書き換えてみた。

その最大の趣旨は、情報の非対称性を生まない事である。
こうした言葉が個人レベルで騙られている内は良いが、こうした言葉を金儲けに利用しようとする輩が必ず出てくる。

被害を訴える人の社会復帰に繋がる仕事をして対価を得るのであれば異論は無い。

しかし、不安を煽って利益を上げようとする輩が必ず出てくる。
集団ストーカーで検索すると100万件を超える件数がHITする。

その大半が「自称被害者」と呼ばれる人たちが書いたブログであり、実態の研究や調査を書いているページは皆無に等しい。

それは、すでに情報の非対称性が始まっていると言える。

それまで集団ストーカーという言葉を知らなかった人が、ネットで情報を得ようとすれば「逆選択(集合的無知)」に陥る。

そして、100万件以上あるのだから、一つ位は本当の被害もあるだろうと考えてしまい、否定できなくなってしまう。

私と同業の調査会社も、肯定してれば金になると想い、作り話で「実際にありました」等と不安を煽り立てる。
いや、意外と本気でそう思っていたりもする・・・調査会社ではないが司法系で実際にいた。

すると、調査会社も確認しているのだからと、逆選択に拍車が掛かる。

そうなれば、第2、第3のマツダ事件が誘発される。
いや、今まででも有ったのだが、集団ストーカーという言葉が使われていなかっただけなのだ。

調査会社が安易に不安を煽り立てて金儲けに走る事は、そうした犯行を助長する事になりかねない。

それは集団ストーカーやガスライティングを訴える人や家族にとっての不幸であり、その犯行の犠牲になった人やその家族、そして社会にとっても不幸である。

そうした不幸を少しでも減らす為に、ここでは出来るだけ論理的に集団ストーカーやガスライティングと言う物を説明して行きたいと思う。

 

集団ストーカー(ガスライティング)とは一体何か?

現実なのか? 妄想なのか? それとも心の病なのか?

ネット上では様々な意見が飛び交っている。

しかし、実際にはその前提から既に間違っている。

まず妄想と言う言葉が、適切ではない。
まずこの映像を見て欲しい。

 

 

これは「マジックドラゴン」と言うペーパークラフトである。
この映像を見ると、マジックドラゴンは首を振って自分を見続けているように見える。

しかし、このマジックドラゴンは、全く動いておらず、首を振っている訳でも、自分を見続けている訳でもない。

しかし、何度見ても自分を見続けているように見える。

これは妄想だろうか?

どんなに「ペーパークラフトが動く訳が無い」と説得しても、動いて見える事には変わりはない。

それを「妄想」と言えるのだろうか?

この映像を見た人にとって、自分を見続けているように見えるのは「事実」であり、確かに自分を見続けているように見えている。

しかし、その事を誰かに話したら、それは「妄想だ」と言われたらどんな気がするだろう?
確かに見えているのに、周りの人はそれを「妄想だ」と言う。

マジックドラゴンを見ている人は、自分が正しく、周りの人が間違っていると思うだろう。

しかし、マジックドラゴンを見ている人には事実であっても、真実ではない。

実際には、マジックドラゴンが自分を見続けているように見えるのは「錯視」である。
そして、このマジックドラゴンが「監視妄想」のメカニズムでもある。

さて、ここで「監視妄想」と言う言葉を使った。
しかし、この原理からすると「監視妄想」ではなく「監視錯視」と言った方が適切な表現ではある。

しかしながら、「監視錯視」と言う言葉を使うと「監視妄想」とは別物と認識してしまう人もいるので、便宜上「妄想」と言う言葉を使用している。
さて、次に「ストーカー」なる言葉だが、この言葉も今一度認識を改める必要がある。
ストーカーの意味としては、「特定の他者に対して執拗に付き纏う行為を行う人間の事」なのだが、それは一面的な見方でしかなく、ストーカーなる言葉が使われる時、得てしてこの一面だけの印象を植え付けられる。

しかし、ストーカーと言う言葉を的確に表現するならば「好きな人にされると嬉しい事を、嫌いな人にされる事」である。

例えば、恋心を抱いていた人に待ち伏せされて、告白されれば嬉しいが、その人と喧嘩別れして待ち伏せされればストーカーと言われる。

また、カルト宗教に入信してしまった人を、家族が救い出そうとすれば、家族がストーカーになり、そのカルト宗教から脱退しようとした時に、信者が連れ戻そうとすれば信者がストーカーになる。

そして、カルト宗教に入信して、その後に脱会した人でも、入信した頃は必ず「心地よさ」を感じている。

少し話は変わるが、人には究極の幸せが4つ有ると言う。
「人に愛される事」「人に褒められる事」「人の役に立つ事」「人に必要とされる事」

その幸せが、誰もが持つ人間としての願望であり、願望が叶わなければ「満たされない」と感じるのである。

私は宗教は嫌いだが、宗教の教えや活動にはそうした事が含まれている。
それ故に、満たされないと感じている人は、宗教に関心を持ち、入信した時には「心地よさ」を感じるのである。

逆に言えば、満たされている人は宗教に関心を示さない。

つまり、満たされていない人は、宗教の執拗な勧誘を「必要とされている」と感じたりするが、満たされている人は「煩わしい」と感じたりする。
そして、宗教団体から脱退した人は、引きとめようとする信者に「煩わしさ」を感じたりする。

しかし、満たされている人が感じる「煩わしい」と言う感覚と、脱退者の「煩わしい」と言う感覚は、似て非なる物であるのだが、満たされている人は、自分の持つ「煩わしい」と言う感覚と同じ感覚だと思ってしまう。

ここで重要な事は、文字で書くと同じ「煩わしい」と言う言葉でも、その言葉に含まれる意味や感覚は人によって異なると言う事である。
集団ストーカー(ガスライティング)を理解する上で、少なくともこれだけの予備知識は必要だと私は思う。

この予備知識を踏まえた上で次へ進もう。

 

集団ストーカー(ガスライティング)は複数の要因から成り立ち、その複数の要因には、要因の要因、更には要因の要因の要因がある。

そうした要因を書き出すと以下の要因があり、それらの要因が複雑に絡み合いっている。

集団ストーカー(ガスライティング)の要因

1. 不安
2. 情報の非対称性
3. 脳(前頭葉)の機能低下
4. 孤独
5. マインドコントロール
6. 神経及び精神疾患
7. 社会性の欠如

ネット上では「集団ストーカー(ガスライティング)=統合失調症」との風聞が高い。
それは医師の診断にも同じ様な傾向がある。

しかしそれは誤りであり、その誤りが誤診を生む。

そうした誤診を防ぐ為にも、こうした要因の相関関係を理解する事が必要と考えられる。
こうした要因の中で最も重要な要因はマインドコントロールである。
集団ストーカー(ガスライティング)と言うマインドコントロールに陥りやすい要因として、様々な疾患があり、その疾患の症状としての不安や孤独もあれば、逆に疾患の原因としての不安や孤独もある。

その不安や孤独を引き起こす要因として多いのが「社会性の欠如」であり、発病する事でも社会性は失われる。

また、マインドコントロールによっても前頭葉の機能が低下し、病を発症する事でも脳の機能は低下する。
更に元々前頭葉の機能が低かった人はマインドコントロールに陥りやすい傾向にある。

そして、疾患を発症していない人でもマインドコントロールによって不安に落とし込まれ、その不安によるストレスから病を発症する。

そのマインドコントロールの入口となる物が「情報の非対称性」であり、情報の非対称性が不安を生む要因となる。

そして、前頭葉の機能が低下している人や、心に病を持った人が、そうした情報の非対称性を作り出し、そうして作られた情報の非対称性が、新たなる要因を持つ人を不安に陥れる。

こうした要因の連鎖がスパイラル化した物が、現在の集団ストーカー(ガスライティング)である。

 

確かに、集団ストーカー(ガスライティング)を主張する人の言動は、統合失調症の人の言動に酷似している。

しかし、マインドコントロールと言う視点で見ると、集団ストーカー(ガスライティング)と言うマインドコントロールによって「統合失調症」の人と同じ言動を「言わされている」と言う事も見えて来る。

単なる不安症の人が、集団ストーカー(ガスライティング)と言うマインドコントロールで、統合失調症の人と同じ言動をして、統合失調症と診断されてしまえば、統合失調症の処方がされてしまう。

そうなると、その薬の作用が症状と誤診され、薬が効かない=強い薬となり、何時までも治らないと言う危険性も出てくる。

また、本当に病気の人が集団ストーカー(ガスライティング)と言うマインドコントロールにより、薬が効いていてもおかしな言動を繰り返し、治療の効果が見られないと判断される危険性もある。

更に、集団ストーカー(ガスライティング)と言うマインドコントロールにより、投薬の効果が薄れる事すらありえる。

集団ストーカー(ガスライティング)を唱える者を治療する場合、治療と同時にマインドコントロールを外す必要がある。

しかし、医師にマインドコントロールと言う概念が無ければそれも難しい。

間違えやすいのは、集団ストーカー(ガスライティング)=監視妄想と見てしまう事である。

集団ストーカー(ガスライティング)は監視妄想であって監視妄想ではない。
マインドコントロールによって監視妄想に陥っている人と、精神疾患等から来る監視妄想をマインドコントロールによって確信させられている人は、似て非なる物であって同じではない。

かと言ってマインドコントロールによって監視妄想を持っている人が、健康な人かと言えばそうでもない。

その多くが原因不明の体の不調を持っていたり、体調不調に気付いていなかったりしている。
原因不明の不調で多いのが、めまい系の症状や、耳鳴り系の症状であり、これらの多くは自律神経系の疾患であったり、神経過敏による症状である。

そして、気付かない不調がドライアイであったり、「難聴」であったりする。
ドライアイは「疲れ目」程度にしか思わず、難聴は脳で補完されて聞こえている為、自分が難聴であるとは気付かない。

そして、その補完が幻聴と間違われ易い。

また、妄想を伴う精神疾患は統合失調症に限った事ではない。
鬱病にしろ、躁うつ病にしろ、妄想は伴う。

集団ストーカー(ガスライティング)と言うマインドコントロールの厄介な所は、そうした異なる疾患から来る妄想の言動が、統合失調症タイプの言動に統一されてしまう所にある。

まずは、妄想とは何か?を考えるべきだろう。

彼らの妄想の原点は「不安」である。

 

人は不安になると、怯えが生じ始める。
人は怯えると、周囲を警戒し始め「怪しい」と思う物を探そうとする。

では「怪しい」とは何か?
それは「知らない」と言う事である。

知らない事、理解できない事、理不尽に思える事、そうした事を怪しいと感じ、怪しいと思える物を「探し」始める。
そして、不安を解消する為に知ろうとする。

問題は「探す」と言う事だ。

「怪しい」と言う事は「知らない」と言う事であり、怪しいと思える物を探すと言う事は、「自分が知らない事(物)を探す」と言う事である。

しかし、本人には「怪しい」=「知らない」と言う意識は無く、単に「怪しい」と言う認識しか持っていない。

知らない物を探そうとすれば、自分の回りは知らない物に満ち溢れている。
つまり、怪しいと思う物を探し始めれば、全てが怪しく思えてしまう。

そして調べ始める。

しかし、自分にとって重要な事や、興味のある事だけしか知ろうとせず、それ以外の事はスルーする傾向が強くなる。

その結果、知識のつまみ食い状態に陥り、基本原理も知らずに現象同士を想像で繋ぎ合わせる。
それが彼等の妄想の特徴だ。

 

さて、それでは何故そのような「不安」が出るのだろう。
彼等は必ずと言って良いほど原因不明の体調不良を訴えている。

頭痛や耳鳴り、目の乾きから皮膚病、心拍の急上昇に至るまで様々な症状を口にする。
そして、原因不明の原因を「攻撃」に求めるのだが、結論から言うと原因不明の体調不良とは「自律神経失調症などの自律神経症状」である。

この「原因不明」と言う物を少し考えてみよう。

例えば、心療内科で体調不良を訴えたとする。
すると、まず内科等で検査を受ける様に指示される。

そして、内科で異常なしと診断されると、自律神経失調症と診断される。

しかし彼等には、それが矛盾に感じる。
検査しても、体に異常が無ないのに病名が付けられれば、「無理に病気にさせられる」と言う感情を持っても不思議ではない。

しかし、体調不良が有るのにも関わらず、検査しても体に異常が無いからこそ「自律神経」なのである。
異常があれば別の病名が付いているし、異常が無ければ体調不良は起さない。

この自律神経症状は、鬱病や統合失調症にも共通した症状であり、この自律神経症状の一つに「不安感」がある。

 

マジックドラゴンの映像では、マジックドラゴンが自分を見続けているように見えたと思う。
しかし、マジックドラゴンは一切動いていない。

自分を見続けているように見える秘密は「凹凸の逆転」であり、これこそが監視妄想の原理でありマインドコントロールを受けた人が見えている感覚である。

マジックドラゴンの凹凸の逆転と同じく、自称被害者には感覚の逆転が見られる。

現実と非現実の逆転、多数と少数の逆転、日常と非日常の逆転、「する」と「される」の逆転などなど。

それは、youtube等にUPされている証拠映像にも見て取れる。

カメラで撮影しながら、遠くにいる怪しいと思う人の所まで行きストーカーされていると言っていたり、自分が車線をはみ出しているのに隣の車が幅寄せして来ると言っていたりする。

 

最も重篤な逆転が、「疑う」と言う事である。

社会性とは「信じる」事を基本として成り立っている。

その「信じる」が「疑う」に逆転すれば、社会性は失われる。
こうした感覚の逆転は全ての自称被害者に共通している。

感覚が逆転していれば、マジックドラゴンのように見続けられているという感覚に陥る。
集団ストーカーというマインドコントロールの外し方も、この映像に含まれている。

マジックドラゴンは、一定の角度を超えると錯視は起こらなくなる。
つまり錯視の起こらない角度から見れば、それが錯視で有る事に気付く。

つまり、認めようとしなかった事や、聞く耳を持たなかった視点に立てれば必然的に錯視は消える。

 

さて、ここからが難しい所だ。

錯視の起こらない所から見れば、錯視である事に気付くのだが、前いた位置に戻ればまた錯視は始まってしまう。
その為、一旦は抜けたかのように見えても、また元に戻ってしまう。

どれだけ「あれは錯視だ」と理解していても、どれだけ説得しても、自分を見続けているように見えてしまう。

何時までも自分を見続けている様に感じていれば、錯視である事が信じられず、説得は騙そうとしているとしか思えない。

 

自称被害者の友人知人や家族の人が、ネットで調べただけで対処する事がどう言う事なのか?ネットの中の自称被害者に対する論議とはどういう事なのか?

こうした人達がこのマジックドラゴンの映像を見て、理解したつもりになって話を年する。
しかしそれは、理解したつもりになっているだけであり、本当の事は何も理解していない。

映像で見て理解しているのに何故理解していないのだろうか?
それは、単に映像を見ただけに過ないのであって、実際のマジックドラゴン を見ていないのである。

本当の外し方とは、この映像と現実の違いに有る。

実際にマジックドラゴンを作って肉眼で見ても、ほとんど錯視は起こらない。
マジックドラゴンの錯視は、カメラで映像化して初めて見事な錯視が起きる。

実際に自分で試した人にしかこの「格段の違い」は分からない。

それが「知識と経験のフィードバック」の重要性である。

映像だけの理解であれば、視点が戻れば同じ感覚に捕らわれてしまう。
しかし、現物で自分の肉眼で見れるようになればもう錯視は起こらない。
そして映像のマジックドラゴンの錯視を見ても、「錯視なんだ」と実感出来るようになる。

その感覚は実際のマジックドラゴンを見た人にしか理解できない。
これが「知っているつもりになっている」と「本当に知っている」の違いである。

 

この「知っているつもり」と言う物が、妄想を生み出す背景である。

集団ストーカーやガスライティングと言った物は、ネット社会の副産物のような物である。

ネットが普及する前にはその様な言葉は存在せず、その様な概念も存在しなかった。

それがネットと共に生まれて拡散して行った。

インターネットが普及し、何でもインターネットで調べる事ができる。

しかしその反面、「自分で確認する」事が希薄になっている。

マジックドラゴンの映像だけ見て「知っているつもり」になっているのと同じだ。

しかし「知っているつもり」の人は、その自覚が無く「知っている」と思い込んでいる。

それは「妄想」と同じであり、妄想を現実と思い込んでいる事に他ならない。

 

インターネットマインドコントロール

※ 電子ブック「被害妄想解体新書: 被害妄想を知り克服する」アマゾンにて販売中!

 

集団ストーカー問題を研究して分かった事がある。
それはインターネット・マインドコントロールと呼ぶべきような状態が発生していると言う事だ。
そして集団ストーカーやガスライティングとは、統合失調症などの病気ではなく、被害を主張する者によるインターネットを通じたマインドコントロールである。

集団ストーカーやガスライティングと言うマインドコントロールは、当たり前に存在していても見過ごされてしまっている物や現象を「犯行手口」と言う先入観を与え、それを探させる。

それまで気にも留めず見過ごしてきた事を、先入観を与えられ、気付かされてしまう事で、それまでにも存在していたにも拘らず「身の回りで起き始めた」と錯覚させられてしまう。

ここではそれをインターネット・マインドコントロールと呼称し、順を追って説明して行く。

このインターネット・マインドコントロールの状態は、集団ストーカー問題に限った事ではなく、ワンクリック詐欺等の振り込め詐欺から、抗議デモ活動まで幅広く作用していると考えられる。

またインターネット・マインドコントロールは、リアル世界のマインドコントロールと何ら変わらないが、インターネットと言う特異性がリアル世界のマインドコントロールより陥りやすい状態を生み出しているとも言える。

 

マインドコントロールに陥りやすい資質

まず、マインドコントロールに利用される誰もが持つと言われている心理がある。
その資質とは、権威性であったり、希少性あったり、コミットメントの一貫性であったり、返報性など様々な心理である。

これらの心理を巧みに利用し、「思考停止状態」にしてマインドコントロールは行なわれるとされている。

その為、誰でも陥る危険性が有ると言われている。
しかし、それは正しくも微妙に違ってもいると思う。

いや、そこに違和感を感じない所が問題だと思う。
それこそが、マインドコントロールに陥りやすい資質なのだろう。
これを読んでいる人に少し質問したい。

学校で学ぶ学問は本当の事なのか?と言う疑問を持った事は?
報道されるニュースは実際に起きている事なのか?

そんな疑問を持った事は無いだろうか?

学校で学んだ事だから正しい、報道されている事だから本当だと考えている時点で、自分で考えず、自分で経験もせずに、全て本当の事だと思い込んでいるのではないだろうか?

それは学校や報道と言う権威で信じ込んでいるのであって、その時点で「思考停止」ではないだろうか?

逆に、何かと陰謀論を信じる人は「社会性」と言う面から見れば、社会性に問題があるのではないだろうか?

なぜなら、社会性の基本は「信じる事」であり、何かと陰謀論を信じる人は「社会性の基礎」に問題があるとも言える。
質問を続けよう。
学校で学ぶ学問と、他人の妄想との違いを考えた事があるだろうか?
もし、学校の先生が自分の妄想を教えていたら?学校で学ぶ事も妄想でしかない。

例えば世界を騒がしている「タリバン」とは「神学生」と言う意味であり、中世ヨーロッパでも神学により科学が否定されていた時代もある。

あのアメリカでさえ、今でも子供を学校に通わせずに親が神学を教えることが許されている。

妄想と現実を分ける物とは何だろう?と考えると、それは経験しかない。
「インターネットマインドコントロールに気付いた経緯」で書いた、ネットでワンクリック詐欺の相談に乗っていた人は「無視する事」と相談者にアドバイスをしていながら、自分が登録されると「不安」を抑えきれなくなってしまった。

彼は対処法の知識はあった。
それは間違った知識ではない。
しかし、それを信じる事が出来なかった。

ではその知識とは何処で学んだのだろう?
学校?友達?弁護士?ネット?
何であろうと学んだ事には変わりはないだろう。

しかし、その知識と誰かの妄想で作られた知識と、区別が付くだろうか?

この例には深い意味合いが含まれている。

「経験を伴わない知識」は他人には平気で使えるが、自分に事が及ぶと不安を抑えきれずに恐怖を覚える。」と言う事である。

この原理は後で説明するとして、妄想と現実の違いは「反復検証が出来る事」である。
検証出来なければ、どれほど理論的な裏付けがあろうとも妄想と変わりは無く、検証しなければその人にとっては妄想と変わりはない、つまりは経験しているかどうかである。
目線を変えて、言葉と言う思考の道具を持たない動物はどのようにして学ぶのだろう?
動物達は経験から学んでいる。

だから、動物の世界には間違いはあっても嘘はない。

人間は言葉と言う思考の道具を持っている。
それは一人の考えを多くの人に伝える為には役立つが、その反面嘘も生まれる。

その嘘を見抜くのも経験しかない。

権威性とは、考えもせず、経験もせず、権威に判断を委ねている状態であり、それは思考停止ではないのだろうか?
希少性も、本当に自分に必要な物かの考えも無しに、希少という言葉に踊らされるだけではないのだろうか?
それは、思考停止ではないのだろうか?

交通事故を騙る振り込め詐欺を例に少し考えてみよう。
一度でも交通事故を経験した人なら、話しの内容を不審に思うだろう。

警察からの電話で弁護士? 警察や弁護士が示談? 警察が裁判の話? 事故ったその日に慰謝料やら示談金? など不審な話で埋まっている。

一度でも事故を経験していれば、事故と言う物は100%の過失は極めて珍しい事を経験で知る。
過失の比率をめぐって論争が繰り広げられるのが事故である。
その交渉に当るのが保険屋であり、無保険車ならともかく、通常は保険金から支払われる。
一度でも事故を経験した事があれば、こうした事は経験しており「おかしい」と気付く。
2度経験していれば「嘘」を確信するだろう。

しかし、経験していない人は「警察」とか「裁判所」とかそうした肩書きを言われると、「そう言う物なのか?」と信じてしまっても不思議ではない。

これが「権威性」による思考停止であり、警察やら裁判所やら弁護士と言う肩書き(権威)で思考を止められている。
つまり、そうした肩書き(権威)を名乗られる事により、それ以上思考するのを止めている状態である。

これはあくまでも交通事故を騙る振り込め詐欺の例だが、権威性による思考停止は至る所に見受けられる。

その一つに「評価」がある。
何かの購入を考える時に、専門家や専門誌、大勢の評価や口コミを気にする事も権威性。
メーカーやブランドに拘るのも一つの権威性。
発言者が誰なのか?を気にするのも権威性。
有名人が使っている、高名な学者が考案した、TVで紹介された等、商品以外の外部性に左右されるのも権威性であり、情報ソースの提示を求めるのも権威性の現れてある。
こうした権威性に捕らわれやすい事が、思考停止に落とし込まれる資質となっている。

その資質を作っている物は?と考えると受験勉強にたどり着く。

本来学問とは、知識で得た事を経験したり、経験で知っている事を理論的に知る事であり、知識と経験のフィードバックが不可欠である。
フィードバックされていない知識と経験は妄想と変わらない。

受験勉強とは、知識だけを詰め込むあまり、経験する時間を奪っている。
それは、嘘を見抜く経験も少ないと言う事でもある。

現代の教育は、自ら考える能力を育てる教育ではなく、こうした教育を受けてきた人は、安易に答えを求める傾向がある。
安易に答えを求めるには、思考や判断を誰かに委ればよい。
本来、経験のフィードバックで知識が事実である事を確信するべき所を、権威で代用しているのである。

情報ソースの提示も、その情報が信じられる物かの判断を、情報の発信元の権威に依存しているのであって、自分で考えたり自分で判断しようとしている訳ではない。
「頭を使う」と言う事を、もう一度考え直してみよう。

九九を言える子供と、足し算を指で数えてする子供、どちらが頭を使っているだろうか?
九九は「記憶」であり、指で数える事は「思考」であり、指を動かしているだけ脳を使っている。

つまり、九九を覚えるより、指で数を数えている方が、より脳を使っている。
指で数えるとは、一つの確認作業であり、その確認作業の経験があるからこそ、九九を確信して信じられる訳でもある。

 

例えばこの問題

マインドコントロール

問題:この長方形の周りの長さは

多くの人が問題を読む前に、図のイメージから反射的に面積と判断し、頭の中で「21㎡」と瞬間的に答えを出しているだろう。
しかし問題の答えとしては「20cm」である。

瞬間的に答えが出る=頭が良い 本当にそうなのだろうか?

そこを少し考えてみよう。

この四角形の問題はマインドコントロールに陥りやすい資質を象徴した問題である。

そもそも頭が良いとはどう言う事なのだろうか?
「考える」と言う行為は「思考」である。
しかし、21㎡と答えを出した時に「思考」していただろうか?

3cmと7cmと言う数字を見て、反射的に面積と判断して、四角形の面積の公式「面積=縦×横」が頭に浮かび、公式に数字を当てはめて、九九で瞬間的に答えを出す。

瞬間的な判断も、公式や九九も、記憶や反射であり、思考はしていない。
つまり、思考領域である前頭葉は使われていないという事である。

今の教育は、この延長にあり、より早く答えを出す為の教育である。
今の教育は、知識は身に付いても知恵は身に付かない教育になっている。

何かのCMにも有ったが、日本の教育は2+5=□と問題を解かせる教育で、□+□=7と問題を考えさせる教育になっていない。

言い換えれば、何かに興味を持ち、自分で調べて考えるのではなく、暗記する教育であり、自分で調べて考える作業より、効率的に答えを求める為の教育。
体験授業と言いながら、部分的にしか体験させず、さも体験したかのように思わせる教育。

それは前頭葉が発達しにくい教育であり、思考停止に陥りやすい資質でもある。
最も効率の良い答えの求め方は、答えを誰かに聞く事である。
最近は、それが当たり前のような風潮になって来ているように私には思える。

例えば、私がパソコンを覚えた1999年頃は、とにかく触って使ってみて、どうしても分からない事があれば書店で立ち読みしたり書物を買って来て、失敗を繰り返し、色々な事を試しながら独学で覚えた。

今のネットの掲示板等を見ると、自分で調べる前に人に聞く傾向が強いように思う。

集団ストーカー被害を主張する人を見ていると、この傾向が強いように思われる。
キーボードを打つのは早いし、かなり難しい事も知っている、私も知らないような専門用語も沢山知っている。

それなのに、NumLockを知らなかったり、ローマ字入力とカナ入力の切り替えを知らなかったりする。
ソフトの使い方は知っていても、パソコンの操作はあまり知らない。

また、HP作成ソフトやブログを書いている人に見られるのだが、タグを知らない人が多い。
そんな人が、自分のHPにタグを貼り付けるだけのレンタルカウンターを設置すると勘違いを起こしたりする。

本来自分のHPにカウンターを設置する場合、CGIやPHP等のプログラムを自分のサーバーにUPして設置するが、タグを貼るだけのカウンターはレンタルしている所のサーバーにあるプログラムで呼び出して表示させている。

その為、レンタルしている所がサーバーエラーを起こしたり、メンテナンスしたりすれば当然止まる。
しかし、タグの意味を知らなかったりすると、自分のサーバーと言うか、自分のHPに「何かされている」と勘違いしてしまう。

そのサーバーですら自分のPCの中にあると思い込んでいる人もいる。

ウイルス攻撃やハッキングを受けていると言い、その手口等を色々説明して来る人が、ウイルス対策ソフトやファイアウォールも入れていなかったりする。

そんな人が、PCの専門家を自称していたりもする。

成功者の話を聞く時でも、成功の秘訣を聞きたがり、苦労話は聞きたがらない。
成功は失敗や苦労の結果であり、失敗や苦労こそがノウハウである。
成功と言う結果だけを求めてもノウハウが無ければ行き詰る。
安易に求めた答えや、部分的な経験で知ったつもりになっていれば、その知識や経験を生かす時に必ず「知らない事」が多発して壁に当る。

それが他人事であれば気にもならないだろうが、それが自分の身に危険が及ぶ様な事であれば、あの人と同じ様に不安や恐怖を感じる事になる。

それは人間関係でも同様である。

つまり、マインドコントロールに陥り易い資質とは、経験のフードバックを持つ知識と、経験のフィードバックを持たない知識のバランスであり、フィードバックされている知識が少ないほど資質は高く、多いほど資質は低くなる。
また、知識と経験がフィードバックされていても、総量が少なければ資質は高く、多くなるほど資質は低くなる。
この事を踏まえて次に進もう。

 

マインドコントロールの手法

マインドコントロールの手法は色々言われて入るが、単純化すれば基本的には3つの段階に分かれていると考えられる。

第一段階は「引き込み」
第二段階は「落とし込み」
第三段階は「コントロール」である。

引き込みとは、言わば客集めである。
その手法はローボールであったり、希少性であったり、権威であったりする。

この引き込みの手法は通常の商行為でも使われている。
「残りあとわずか」と言うキャッチ、アンケートと言うローボール、ブランドと言う権威などなど。

問題は「落とし込み」と「コントロール」である。
基本的に、落とし込みとは「不安」を植え込む事であり、コントロールは「不安を解消する方法」の提示である。

カルト宗教等では、不安を植え込む為に使われるのが、世界破滅等の予言であったり、前世からのカルマであったり、先祖供養であったりするのだが、そもそも宗教に救いを求める時点で不安を抱いている。

元々不安を抱えている人には「引き込み」や「落とし込み」は必要ない。
不安を抱えている人なら、不安を恐怖に摩り替えてしまえば良い。
そこに、不安を取り除くグッズを提示して買わせるのが霊感商法であり、メシアが登場すれば布教になる。

振り込め詐欺も、基本的に相手に不安を与えて振り込ませる。
振り込め詐欺の手法は、相手に不安を与えて落とし込み、不安を解消する方法として「振り込み」をさせる、つまりコントロールである。
つまり「不安」こそが最も重要な要素である。

不安と言う核心を理解した上で、マインドコントロールに使われる手法や付け込まれる心理に触れて行こう。

ローボール
ローボール人は遅い玉を投げられれば思わず受けてしまう。
そして徐々に早いい球を投げられれば、早い玉でも取ろうとする心理である。
つまり、自分が決めたことには責任を取ろうとする心理を利用したテクニックである。

具体的には最初に受け入れやすい条件を提示して決断させ、その決断を有効にするにはと、徐々に条件を加えて行き、通常なら契約もしないような不利な契約をさせるテクニックである。

合意性
周りの人に同調してしまう心理。
この同調性を利用した昔ながらの手法が「さくら」である。
買おうか買うまいか迷っている時、一人が買えば次々と買い始める心理である。
この心理の中にも不安と欲が存在している。
もし買い遅れて、なくなってしまえば損をする、その損をするという不安が合意性の中にある。

権威性・希少性
著名な人や団体、肩書き、今ならお得、残り僅か、そうした本来の価値ではない「外部性」に価値観が左右される心理。
TVで紹介された、とか有名人も使っているとか、などは馴染み深いだろう。
この心理には、思考停止と不安がある。
権威とは、自分では良し悪しを判断出来ない時、その判断材料として権威が必要となる。
その原点は、自分が損をしない為の判断基準でもある。
希少性も、買い遅れに対する不安の植え付けでもある。

返報性
これは社会性の基本でもあるのだが、何かをしてもらったら返そうとする心理である。
親身になってくれる相手を裏切る事は後味が悪く、カルト宗教等ではこうした心理を巧みに利用する。
何かをしてもらっても返さなければ、そこに不安が生じる。

好意性
自分を褒めたり高く評価してくれる人に好意を持つ心理。
自分の事を肯定的に受け止め、その人を好きになる事を好意の返報性と言う。

集合的無知
曖昧な状況にいる時に、判断基準を周りの人に求めようとする。
しかし、周りの人も同じよな曖昧な状況にいる時、周りの人も同じ様に判断基準を他人に求め、その結果、皆が間違った方向に行ってしまう現象。
分かりやすく言えば、裸の王様現象。
裸の王様のお話しで「王様は裸だよ」と言った子供以外の登場人物は、集合的無知に陥っている。
これも、自分だけが他者と違う不安に起因した心理である。

コミットメントの一貫性
矛盾しない自分でいようとする心理。
自分が取った行動に責任を持とうとしたり、自分の発言に責任を持とうとしたりする心理。
例えば、せっかくポイントカードを作ったから、その店でポイントを貯めようとしたり、嘘の上塗りもコミットメントの一貫性である。

集団圧力(集団同調)
これは、集合的無知を意図的に行なう物と理解すればわかりやすい。
集団の中の一人以外の者が、わざと間違った答えを出すと、その一人は間違いと分かっていても、間違った答えを言わないと不安になる心理。

先入観
先入観とは前持って作られた観念。
その観念によって真に自由な発想が阻害される。
マインドコントロールは、先入観を植え付ける事で、自分達の都合の良い思考に導く。

緊張と緩和
これはお笑いの原理としても知られる。
緊張の後の緩和が笑いを生む。
その逆に緊張が緩和した瞬間に緊張させれば、恐怖を覚える。
この手法はゾンビ系のゲーム等に使われている。
少し強めの敵を倒して、緊張がほぐれた時に、突然強敵が現れれば緊張は倍増すし、そのときに恐怖を覚える。

そして、延々と続いた緊張の後に、緩和をもたらす存在は救世主的存在となり、心を許し易くなる。
宗教系のマインドコントロール
まず引き込みに使われるのがスピリチュアルである。
このスピリチュアルも一つのローボールで、宗教を名乗ると警戒される為、本来の宗教名を名乗らずスピリチュアルを名乗る。

一つの例として、「手相の勉強をしています」などと街頭で声をかけて、お金は要らないから手相を見せて下さいと言って手相を見る。
そこで褒め言葉を連発した後で「気になる所があり、それは自分では分からない」等と不安を植え込む。
褒める事で好意の返報性を抱かせてガードを下げ(緩和)、ガードが下がった所に不安(緊張)を植え込む。
そして、先生等もっと上の人に見てもらった方が良い(不安解消の提示)などと、サロン等に誘われる。

そこで、見てもらうにはお金が必要と言われ、払えない額ではない金額を提示され、そこで「このままでは大変な事になる」等と、更なる不安を植え付る。

その不安の解消として提示されるのが、セミナーへの参加や高額な霊感商品で有ったりする。

セミナーに参加すれば、世紀末だの前世のカルマだの先祖供養だのの話を聞かされ先入観を植え付けられる。

話を聞いて、胡散臭く思って信じないと思っていても、何かの拍子にふとその話しが脳裏をよぎった時に、ついその話に関連付けて考えてしまったりする。
その時点で、すでにマインドコントロールの影響を受けている。

こうなると、先に植え付けられた不安が増大してくる。
この不安が増大している時点ですでに思考は奪われている。

そして思考停止状態になった所で、メシアの登場。
気が付けば入信している。

またある宗教では、悩みを持っている人に近付き、親身に相談相手になることで好意の返報性を抱かせて入信させる。
「悩み」は不安を伴っている為、不安を植え付ける手順は要らず、好意の返報性と不安解消の提示をするだけで落とし易い。
振り込め詐欺系のマインドコントロール
振り込み詐欺系にも電話系、はがき系、ネット系などがあり、年々手口が巧妙になってきている。
巧妙なオレオレ詐欺の手口の一例。
最初に「オレだけど」と、電話番号が変わったと電話がある。
その時は当然声が違う事に気付くのだが、風邪を引いたので声がおかしい等と信じ込ませる。

この時は、電話番号の変更の話だけなので、さほど警戒されていない。
これが最初のローボールである。
電話番号の変更の電話があれば、その番号を登録する。
その番号を登録してしまえば、次に電話をするとその番号が表示され名前も表示される。
名前が表示されれば、その人だと思って電話に出てしまう。

すると、声の違いに気付かず、その人の声に聞こえてしまう。
これも一つの思考停止である。

そこから、会社で穴を開けただの、事故っただの、借金があるだのとの話が始まる。
主に子供を思う親心を不安にさせる口上が使われる。
その電話の多くは2時台が多く、3時までに振り込ませようとする。
それは、時間的制限を持たせる事で思考停止に陥らせ、確認作業をさせる時間を与えない為である。
子供を思う気持ちが強ければ、不安と焦りで思考が止まり、振り込め詐欺の注意喚起のポスター等目に入らなくなってしまう。
その不安を解消する方法が、振り込む事である。

しかしこの詐欺は、3時を過ぎれば成立しなくなる。
理由は振込みは3時までしか出来ない事であり、3時を過ぎた振込みは翌日に振り込まれる。
振り込まれる間に時間に確認されてしまえば、振込みを止められる。

次は、脳のメカニズムに話を進めよう。

 

マインドコントロールに陥る原理

ここまで「不安」や「恐怖」、そして「思考停止」と言う事に触れて来た。
では、不安や恐怖と思考停止にはどの様な関連性があるのだろうか?
その解説に移って行こう。

これは「集団ストーカー」関連のページで以前から書いている事なのだが、脳の「前頭極」の機能が関係している。
前頭極は、将来予測や過去の意思決定の評価などを行なうと考えられている。
その前頭極のもう一つの役割は、危険回避である。

危険を感じた時に、考えて行動していては遅れてしまう。
その為、危険を予測した時に、瞬時に行動して危険を回避する防衛機能である。

そのメカニズムは、危険を予測すると前頭極が前頭葉から理性を奪い、扁桃体と直接繋がり扁桃体主体の脳に変わる。
その時、前頭葉は使われず、思考停止状態になる。

そして、扁桃体は感情の領域であり、不安や恐怖を感じるのもこの扁桃体である。

前頭極は、不安により活動を始める。

つまり、不安を与えられる事で、前頭極を働かしてしまえば「思考停止」状態に陥る事になる。

しかし、単に不安を感じるだけでは前頭極は働かない。
前頭極が働くには、自分に符合するキーワードが必要であり、符号キーワードがあると、前頭極は瞬時に働き、思考は不安解消にしか働かず、感情的な思考や行動になる。
その瞬間、頭が真っ白になる様な「ハッ」とした感覚になると言う。

つまり、危険が我が身に及ぶ事が予想されると働き出し、その時の行動原理は「逃走か闘争」になる。

これは不安や恐怖から逃れると言う意味であり、それがある時には逃走であったり、篭城であったり、信仰であったり、従順であったり、訴えであったり、改善であったり、抗議であったり、要求であったり、強要であったり、闘争であったりするが、それらの原点は不安の解消である。
これが「不安」と「恐怖」そして「思考停止」のメカニズムなのだが、ここでマインドコントロールに掛かりやすい資質が関係してくる。
変な話だが、受験勉強にいそしんで来た人は、脳の神経の結びつきが弱い傾向があり、前頭葉も発達していない可能性がある。

熱心に勉強して来たのに変な話に聞こえるかもしれない。
しかし、受験勉強で使われるのは尾状核(学習と記憶の領域)で前頭葉ではない。
前頭葉が最も活性化するのは人の顔を見て会話をする時である。
つまり、受験勉強で友人とのコミュニケーションが少なかった人は、前頭葉の発達に問題がある事が推測される。
また、脳神経を発達させるのは五感からの刺激であり、受験勉強には五感からの刺激は少なく、その分、脳神経のネットワーク結合が弱い事も推測される。

オウム真理教の幹部に高学歴者が多かったのはこの為と思われる。

これが、知識と経験のフードバックの重要性であり、経験は五感からの刺激を伴い、脳の神経ネットワーク結合を強固にする。
しかし、これだけでは長期にわたるマインドコントロールは出来ない。
長期にわたるマインドコントロールには、先入観を持たせる必要がある。
先に、先入観を持たせてしまえば、黒い物でも白と思わせる事ができる。

それも脳のメカニズムであり、そのメカニズムとは「基準」である。

それを理解しやすい物に「ルビンの壷」がある。

ルビンの壷

 

顔が見えると壷は見えなくなり、壷が見えると顔が見えなくなる。
しかし、「これは顔の絵です」と先入観を植え付けられて見れば、壷が見えても錯覚と思ってしまう。
どちらも見えるのが当たり前なのだが、先に先入観を植え付けられる事で、片方が正しく片方は錯覚だと思わされてしまう。

つまり片方が基準と言う先入観を植え付けられれば、もう片方は間違いとなってしまう。

裸の大様風に言えば「壷が見えたら愚か者」と先入観を持たせられれば、壷に見えていても「顔に見える」と言う心理である。
次は下の赤い丸をクリックしてみよう。
下の赤い丸をクリックすると、大きな赤い丸の画像が出る。
その赤い丸は暫くすると赤い色が消える。
その赤い丸を、色が消えるまで見続けると、色が消えた時に赤かった部分が青く見えるはずだ。

マインドコントロール原理

この赤い丸が青く見える理由が、基準である。

赤い丸を見続けると、脳はそこが赤であると認識する。
つまり、赤く見えている所の基準が赤になる。

白(基準)を0、赤をプラス、青をマイナスとした場合、赤を見続ける事で、赤い部分の視覚の基準は赤になる。

見えている赤い色を+5 としよう。
赤を見続ける事で基準が+5 になれば、元々の基準であった白は-5 になっている。
本来の-5 は赤の反対色である青の領域であり、基準が+5 になっている時に突然赤が消えて白になると、白は-5 になっているので青く見える。

この様に、脳は何を基準として見るかで見える物が異なる。

先入観とは、その基準を変える働きをする。

その顕著な例が、集団ストーカーの被害を主張する人達である。
通常何処にでもある当たり前の事を「犯行の手口」と言う先入観を植え付けられ、犯人の存在しない犯行に怯えている。

その代表的な物が「咳払い」であり、「ゾロ目のナンバープレート」である。
咳は誰でもするのだが、「ワザとらしく咳をして、監視している事を仄めかして来る」と言う先入観を与えられ、咳をしている人を犯人だと思い込む。

冬場や花粉症のシーズンなどは、そこら中で咳をしている人がいる。
だから、集団で狙われていると思い込んでいる。

ナンバーは4桁で、その4桁を、ABCDとすると二つの組み合わせはAB、AC、AD、BC、BD、CDの6通りある事になる。
それぞれに0~9までの数字で同じ数字が揃うのは、00、11、22、33、44、55、66、77、88、99の10通りであり、00~99までは100なので10/100で一つの組み合わせに10%同じ数字が揃う確立がある。
組み合わせが6通りあると言う事は、10×6で60%あると言う事になる。

60%の確立の物に出会わない方がおかしい。

このゾロ目のナンバーも、元は「警察」や公安から狙われていると思い込んでいた人が、警察車両は「8ナンバー」である事から、警察車両を指す言葉として使われていた。
しかし、この「88」は分類番号だったのだが、88の意味を知らない人がナンバーと思い込み、それがゾロ目のナンバーへと拡大解釈されて行った経緯がある。

その「8」ナンバーの本来の意味は「特種用途自動車登録」であり、キャンピングカーや街宣車等の改造車も8ナンバーである。

確立上60%もあるゾロ目に加え、ポケベル世代の語呂合わせや電話番号や住所、生年月日が加われば、ほとんどの車が怪しく思えてしまう。

その他にも同じ色の服と言う物があるが、彼等の言う服の色など赤系・青系・黄系・白系・黒系の5色である。
その中で季節感に合わせて着るのだから、同じ色の服を着ている人がいるのは当然である。
つまり、犯行の手口とする基準を、大多数の物にされてしまい、存在しない犯人に怯えている訳だ。

しかし、こんな馬鹿げた事に何年も何十年も悩み続けている。
それほどまでに、先入観を植え付けられると、効果は持続すると言う事である。

これを、彼等が使う言葉では「アンカリング」と言う。
アンカリングとは「条件付け」と言う意味なのだが、彼等はアンカリングという言葉にアンカリングされている事に気付いていない。

「怪しい」とは「知らない」という事である。
何処にでも当たり前にある事でも、気にしていなければ見過ごされて気付く事もない。

見過ごして気付かなかった事を「犯行の手口」とアンカリングされ、それを「探して」しまう。
元々何処にでもある事なので、意識して探せば何処にでも見つかる。
それが恐怖心に拍車を掛けてスパイラル化して行く。

そうした事は、調査現場で嫌と言うほど見て来た。
戸建て住宅の電話の保安器には、必ずアース線が地中に延びている。
十数年も住んでいれば、毎日見ているはずなのに「こんな物は見た事がない」だから、この線で送信されていると言う人もいた。

また、切妻の屋根には「母屋」や「棟」「桁」があり、図面にも描いてあるのに「30年住んでいるが見た事が無い」。
だから、それが盗聴器だと言う人もいた。

これらは全て、それまで存在に気付かなかった事に気付いただけで、以前から当たり前にあった事を怪しんでいるだけである。

この先入観は、しばしば冤罪をも生む。
犯人と決めて掛かる事で、不利な証拠だけを重視したり、良くも悪くも取れることを悪い解釈だけに受け取ったりする。
その悪い解釈を聞かされる事で、聴く人にも先入観が植え付けられてしまう事になる。
それは逆のケースもあると言う事でもある。

被告となった時点で被告=犯人と言う先入観が発生してしまう。
その為裁判は「言った者勝」の側面も持っている。
さて、ここで少し目線を変えてみよう。
占いは当るのか当らないのか?

占いと言うのも、一つの先入観であり、アンカリングであり、それは一つのマインドコントロールでもある。

例えば「今日は良い事があります」と書かれていたとする。
すると「良い事がある」とアンカリングされ、良い事を探して関連付けてしまえば、「占いは当る」と思え、探したり関連付けなければ「占いは当らない」と思える訳だ。

占いは読んでも読まなくても、その日に起きる事は変わらない。
占いを読まなければ気付きもせず見過ごしてしまう事を、先入観を持たせて探させるから目に止まるだけである。

つまり、占いも、集団ストーカー被害も、原理は同じである。
カルト宗教等のマインドコントロールでは、社会と隔絶され集合的無知の状態に置かれる。

本来社会には色々な考えを持った人がいる。
自分とは違う考えを持った人も沢山いる。
そうした人と出会い、そうした人の考えに出会う事で、自分の考えの間違いに気付き修正されて行く。

しかし、カルト集団のように、社会から隔絶され、同じ価値観、同じ考えだけの人達の集合では、異なる考えに接する機会はなく、間違いが是正される事もない。
その為、全体が間違った方向へ進んでしまう。
それが「排他的集団に於ける集合的無知」である。

つまり、自分が身を置く集合の中で、大多数が同じ意見であればそれが基準となり、異なる考えは異端になるのだが、その身を置く集合が全体の中の小さな集合であれば、全体の中ではその集合こそが異端になる。

異端が基準になってしまえば、大多数の社会に馴染めず、自分が身を置く集合に居場所を見出し、抜けられなくなってしまう。

 

カルト宗教とインターネットの類似性

インターネットの世界は、カルト宗教に酷似している。

カルト宗教は親和性と排他性を併せ持つ集団である。
入信させる為の親和性、異なる考えに対する排他性を併せ持ち、その排他性により集合的無知が発生する。

インターネットのコミュニティーも同じ性質を持つ。
インターネットのコミュニティーも、カルトと同じ様に同じ価値感、同じ考えの人の集合であり、カルトと同じ様に親和性と排他性を併せ持っている。

インターネットのそうした集合の中では、カルトと同じ様な集合的無知が発生する。

例えば私の専門である「盗聴」に関する「相談掲示板」を例に説明する。
こうした相談掲示板に相談すれば、それを見た人は親切に答えようとする。
これがインターネットの親和性である。

リンクを張った掲示板は排他性は出ていないが、集合的無知が発生している。
盗聴に関して知らない人達が、聞きかじった情報を持ち寄り、間違った方向に話が進んでいく。
これが、集合的無知である。

詳しく知らない人同士が議論しても意味は無い。

2ch等の集団ストーカー系の板では、専門知識を持った人が否定論を書けば、犯人扱いされて聴く耳を持たない。
それが「排他性」である。

彼等は異なる意見を書く人を「工作員」と呼ぶが、彼等の言う工作員とは宗教で言う「悪魔」と同じ意味合いを持ち、異教の神や異教徒と同じ意味合いで使われている。
それ自体が先入観の植え付けであり、先入観を植え付けられた人は、その先入観に影響されて物を見る。
こうなると、カルトとなんら変わらない。
そのカルトと同じ環境では、カルト宗教の使うマインドコントロールと同じ状況が生まれる。

同じ意見や価値感の人達が集まるコミュニティーの多数意見が、全体の多数意見とは限らない。
しかし、コミュニティーの中で多数意見であれば、全体の多数意見の様な錯覚を覚えてしまう。
それは、集合的無知が発生する要因である。

そして、インターネットの中の多数意見が、社会全体の多数意見とは限らないし、インターネットの少数意見が現実社会でも少数意見とは限らない。(サンプリングの偏りの危惧)

インターネットと言う世界自体が、インターネットが出来る環境にいる人だけが使う世界であり、その時点で同じ環境にいる人だけの集合でもある。
そもそも声高に叫ぶ人は、不満を持っている人であって、不満を持っていない人は何も言わない。
ネットにしろ現実社会にしろ、声高に叫ぶ人の声だけが耳に入る。
しかし、声高に叫ぶ人の全体での割合は、極めて少数派である事の方が多い。

言い換えれば、少数派である為に声高に叫ばなければ誰の耳にも届かないから声高に叫んでいる。
インターネットでのコミュニティーは、単なる趣味趣向であれば問題は無いのだが、不平不満のはけ口になったり反社会性を持つとカルト化する。
その代表的な物が「ネトウヨ」や「似非右翼」である。

それが、インターネットの特殊性であり、インターネットマインドコントロールが発生する要因である。

 

検索エンジンを見直してみる

集団ストーカーやガスライティングの被害を主張する人のHPやブログにこんな事が書かれていたりする。
「googleなどで検索すると何十万件もHITする」
その大半が「被害を訴えている人」の物であり、こんなに沢山の被害がある。

当たり前の事なのだが、そうした記述は検索エンジンを使って集団ストーカーやガスライティングと言うキーワードを検索した事を表している。

ではその検索エンジンをもう一度見直してみよう。
無数の情報が存在するインターネットの世界で、検索エンジンは必要な情報を探す為に必要不可欠なツールである。

必要な情報のキーワードを入力すれば、瞬時に入力したキーワードが含まれる記事を表示してくれる。
後は、タイトルや表示されている記事の一部を参考に、見たい記事を選んでクリックすればその記事が見られる。
インターネットの世界で検索エンジンを使わず、求める情報を探す事は至難の業だろう。
それほどまでにインターネットの世界での検索エンジンに対する依存は高い。

しかし、この便利な検索エンジンには意外な落とし穴がある。
求める情報だけ選んで見ると言う事は、「情報の非対称性」や「集合的無知」が発生する危険性が高いと言う事でもある。

例えば、集団ストーカーで検索した場合、その大半が「被害を訴える人」のページであり、その被害に異を唱えるページは極端に少ない。
それこそが「情報の非対称性」その物であり、そうした偏った情報は「逆選択」や「集合的無知」を生む。

しかも、検索した人は異を唱えるページはスルーして、求める情報だけを閲覧する。
それこそが無意識で行なう「排他性」である。

キーワードを入力して必要な情報だけ表示すると言う事は、不要な情報をシステム的に排除していると言う事であり、それはシステム的な排他性でもある。

システム的な排他性は、便利ではあるがその反面、逆選択や集合的無知の危険性を含んでいる。

その危険性が及ぶか否かは、使う人の資質だろう。

その資質が「経験と知識のフィードバック」の量である。

 

インターネットマインドコントロールに陥る原理

ここまで、マインドコントロールに付いて書いて来た。

それを踏まえて書いて行く。
説明しやすいので集団ストーカー被害者を例にしてインターネットマインドコントロールを説明して行く事にする。

まず、集団ストーカーの被害を主張する者は、ネットで言われているような統合失調症等の精神疾患者達ではなく、インターネットによってマインドコントロール状態に陥った人達である。

しかし、マインドコントロールの原点は「不安」であり、不安感は精神疾患共通の症状でもある。
その為、精神疾患者はマインドコントロール状態に陥り易く、集団ストーカーを訴える者には精神疾患者が多い。

それは、集団ストーカー被害者が槍玉に挙げている宗教でも同じである。

また、カルト宗教の教祖の多くが精神を病んでいるのと同じく、ネット上でコントロール化しているサイトやブログの主の多くに病歴がある。(本人は陰謀と主張していたりする)

つまり、精神を患った者の妄想で作られたページが、不安を持つ者をマインドコントロール状態に落とし、マインドコントロール状態に陥った物が、宣教師の布教活動の如く行動して増殖しているのが、集団ストーカーと言う現象である。
さて、その原理なのだが、その原点も「不安」である。

不安を持つ者はその不安を解消する物を探そうとする。
その不安とは、体調不良であったり、仕事であったり、人間関係であったり、生活であったり、様々である。

例えば、仕事でストレスが溜まれば自律神経に影響が出る。
自律神経のバランスが崩れれば体調不良になり、調子の悪い箇所の診療科に行っても異常は見つからない。
しかし、体調不良は治まらず、色々な所の調子が悪くなり、その度に医者に行っても異常は見つからず、不安を抱える事になる。

そしてネットで調べ始め、同じ症状で悩んでいる人のページにたどり着く。
そこにはそれは電波攻撃と記され、「精神病に仕立てる為の攻撃」と書いてある。

その状態には、マインドコントロールの要素が全て満たされている。
第一に「不安感」、同じ症状と言う「自分に符号するキーワード」、精神病に仕立てられると言う「先入観の植え付け」、電波攻撃等の言葉による「持っていた不安」の「恐怖」への転換。
そして、集団ストーカーという犯罪を世に知らしめると言う「不安解消の提示」

そして前頭極が働き、他の意見は届かなくなる。

その実態はと言えば、体調不良が出た時点では自律神経失調症である。
最初から心療内科に行けば良いのだが、自律神経失調症と言う病気を知らないが為に、一般科を受診してしまう。

鬱病や統合失調症にも自律神経症状はあり、同じ症状だと思えたページは、精神疾患の妄想で書かれたページだったりする。
しかし、そのページを見て「精神病に仕立てられる」と言う先入観を植え付けられてしまった為に、心療内科へは行こうとしなくなる。

そして攻撃と言う先入観を与えられ、ストレスは一気に倍増し精神を病み始める。
因みに自律神経症状は鬱病等の危険信号でもある。

そして、その人もまたブログ等で被害を訴え始め、コントロール拠点の一つとなり被害者を増やしていく。
それはまるで人間に感染するインターネットウイルス(プログラム)である。

これはあくまでも自律神経失調症の例であり、一例でしかない。

最も深刻なのは、インターネットの普及に伴い、若者のコミュニケーション能力が低下して来ている事だ。
いや、恐らく若者のコミュニケ-ション能力の低下は、インターネットの影響ではない。
インターネットの影響は二次的な物だろう。

一番の原因は教育にある。
コミュニケーション能力を身に付ける時期を勉強に当て、コミュニケーション能力を育てない教育。
その結果、コミュニケーションをネットに求めてしまい、人格形成に問題を抱えてしまう事になる。

実はこれも集合的無知の要因である。
現実世界には様々な考えや価値感を持つ人がいて、そうした人の考えや価値観に接する事で間違いに気付き修正されて行く事は、「マインドコントロールに陥る原理」で書いた。

ネットによるコミュニケーションは、同じ価値感、同じ考えで集まり、親和性と排他性を併せ持つ事になる。

嫌いな相手とはコミュニケーションを取らず、気の合う相手とだけコミュニケーションを取って育てば、社会に出た時に色々な意見や価値観の混在する社会に出た時の順応性が育たない。

インターネットコミュニティーでのやり取りを見ていて思う事がある。
それは意見の一致を計ろうとする傾向だ。

意見など一致する必要は無い。
異なる意見がある事が普通なのだ。

その異なる意見を知り、異なる意見も尊重し合うのが社会でもある。
意見を一致させると言う事は、お互いの意見を押し付けあう事でもある。
お互いに納得する必要等無いのに、納得するまで論議しようとする。
それも一つの排他性である。
自分が身を置く集合の中で、大多数が同じ意見であればそれが基準となり、異なる考えは異端になるのだが、その身を置く集合が全体の中の小さな集合であれば、全体の中ではその集合こそが異端になる。

異端が基準になってしまえば、大多数の社会には馴染めず、自分が身を置く集合に居場所を見出し、抜けられなくなってしまう。

つまり、ネット依存である。

社会に馴染めなければ、社会に対する不平不満が出てくる。
つまり、ネトウヨ系のコントロールを受けやすくなる。

社会に馴染めなければ、社会での人間関係も上手く行かず、悩みや不安を抱える事になる。
コミュニケーションが上手く取れないと色々な面で問題が生じる。

例えば仕事上での失敗をした時、上司とコミュニケーションが取れていれば叱られ方に差が出来る。
同じ失敗をしても、コミュニケーションが取れている相手には手心が入り、コミュニケーションの取れていない相手には手心は入らない。

それが差別に感じ、孤立感を深めて不安を感じる。

ネットでのコミュニケーションは、気に入らなければ切り捨て、気に入った物だけ受け入れていれば良い。

それと同じ様に、仕事も気に入らなければ止めてしまう。
そんな事を繰り返していれば、生活も苦しく再就職も困難になり、将来に対する不安も出てくる。

ネトウヨは、そうした不満や不安を持つ人に、先入観を与える。
集団ストーカーの被害を主張する人が、異なる意見を唱える人を「工作員」等として敵対視するのと同じく、自分の境遇を正当化する為に仮想敵を作り出す。

ここにもマインドコントロールの要素が満たされている。
最大要因の「不安」が存在している事、自分の境遇を連想させるキーワード、仮想敵と言う先入観の植え付け、仮想敵との抗争と言う「不安解消の提示」

ネトウヨも集団ストーカーも人間に感染するネットウイルス的サイクルは同じであり、排他性や反社会性などカルトと変わらない。

インターネットマインドコントロールとは、現実世界のマインドコントロールのように、引き込みや落とし込みなど必要としない。
HPやブログさえ作っていれば、要件を満たした人が勝手に集まって来て、要件を満たしている人に不安と、不安と自分を関連付けるキーワード、先入観の植え付け、そして「不安解消の提示」さえ揃えれば、誰でも陥る現象である。

こうした要件をプログラムとして見るならば、インターネットマインドコントロールはヒト感染型ネットウイルスと言っても過言ではない。
そしてウイルスの様に感染した人の中で変異しながら感染して行く。

 

抗議集会や抗議デモとの関係

このインターネットマインドコントロールの原理は、抗議デモや抗議集会の呼びかけ等にも存在する。

同じ不安を抱えた人の集まるコミュニティーで、不安を増大して先入観を与えて不安解消の提示として、抗議デモや抗議集会を呼び掛ければ良い。

アメリカの反格差デモも、この要件を満たしている。
高い失業率に不安を抱える若者に「1%の金持ち、99%は貧乏」と言う先入観を与え、不安解消の提示として「ウォールストリートを占領せよ」とのデモを呼びかけている。

このデモの広がりも、インターネットである。

しかし冷静に考えると、ウォールストリートを占拠した所で何も変わらない。

チュニジアやリビアでは国家が崩壊している。
そのデモもまたインターネットが関係している。

同じ不安や不満を抱える人が国民全体の多数派になれば、インターネットで国家ですら崩壊してしまう。

日本でもフジテレビの抗議デモ等が行なわれている。
その参加者や賛同者には、ネトウヨや集団ストーカー被害を訴える人も少なくは無い。
そもそも、その主張はフジテレビの番組編成が韓流に偏っている事に対する抗議である。

見たくなければ見なければ良いと思うのだが、彼等はそう言う問題ではないと言う。
しかし、それは好きな物だけ受け入れて、嫌いな物は排除しようとする心理ではないのだろうか?
つまり、排他性。

その主催者の一人はかなり異常性を発揮している。
また、逮捕もされている。
その逮捕された主催者は似非右翼でもある。
こうした事からも「インターネットマインドコントロールに陥る原理」で書いた自律神経失調症の例と同じサイクルを持っている事が分かる。

ネトウヨや似非右翼は国粋主義の皮を被った選民思想が見え隠れする。
今まで見下してきた国の台頭に脅威を感じて排斥しようとしている様に見受けられる。
それはバブル期にアメリカで起きた排日運動と同じではないのか?

ここで少しネトウヨ(ネット右翼)と言う物を考えて見よう。
ネトウヨには諸説あるが、説によって共通している説もあれば異なる説もあるのだが、その見解の違いはネットウイルス的な見方をすると矛盾しなくなる。

その見解の相違は、変異である。
集団ストーカーも、変異を繰り返して今日に至っている。

変異を繰り返してきた現在の型をだけを見ても本質は見えない。
ネトウヨはネット上だけの存在だったのが、似非右翼になると現実世界とリンクしている。
それを別々の物と考えるより、変異と考えた方が正しいだろう。

実は集団ストーカーも同じ経緯をたどっている。
ネットがさほど普及していなかった頃は、集団ストーカーはネットだけの話だった、それがネットの普及とリンクして変異を繰り返しながら増殖し、街頭演説をしたりNPO法人を設立するまでになっている。

ではネトウヨの本質は?と言えば、そのネーミングが示すようにネット依存者が原点である。
マインドコントロールの原理でも書いたが、前頭葉が活性化するのは人の顔を見て話しをする時である。

ネットに依存していればその機会は失われ、前頭葉が活性化されない。

少し話を変えよう。
子供の脳と大人の脳の違いがある。
子供の脳は扁桃体主体の脳であり、成長するに従い前頭葉主体の脳に変わる。
脳は筋肉と同じ様に使えば発達し、使わなければ退行する

ネットに依存していれば前頭葉は発達せず、子供の脳のように扁桃体主体の脳に退行する。
子供は自分のわがままが通らないと癇癪を起こしたり、感情的な行動を取るのは扁桃体主体の脳だからである。

ネットに依存していれば脳は退行して感情的になり、それが右傾化となって現れる。
それがネトウヨである。

インターネットの環境の変化も考慮しなければならない。

私がネットを始めた1999年頃は、まだPCもさほど普及しておらず、ネットもまだあまり普及していなかった。

コミュニケーションも携帯電話はあってもメールは普及しておらず、携帯接続のネットはI-Modeが始まったばかりだった。
その為、その当時にはネット依存と言う言葉すらなかった。

しかし、ネトウヨはその当時からいた。
そして、ネットの普及とリンクしてコミュニケーション手段も携帯メールなどに変化して行った。
その変化と共にネット依存が増加して来ている。
それはネトウヨを取り巻く環境も変化して、ネトウヨ予備軍やコントロールを受けやすい人が増加していると言う事でもある。

そのネット依存の傾向が、好きな物だけ受け入れて、嫌いな物の排除であり、ヘイトスピーチもこの域を出ていない。

 

マインドコントロールに陥らない為には

マインドコントロールの影響を受けなくするには、どんな時でも自分の中でアンチテーゼを持つことである。
常に逆の立場、逆の視点を持ち、更に第三者としての視点を持ち、常に疑問を持つ事である。
答えを誰かに求めず、疑問を持ち続け、考え続けていれば思考停止に陥る事は無い。

そして何よりも経験を積む事だ。
安全な道、楽な道を選ばなければそれだけ経験は積み重ねられる。
どんなに考えようと、経験のフィードバックが無ければ自分の考えに自信が持てず、他人の意見に影響されてしまう。

大切な事は、先を知る事である。
怖がって先を知らなければ、何時までも恐れる事になる。
恐れの先には新天地があり、新天地を知れば恐れは無くなり、自分の居た世界が小さく見える。

ネットウイルス的に言えば、経験はワクチンであり、アンチテーゼは予防法である。

感染してしまった人の処方は病気と同じ様に進行状態によって違う。
初期症状であれば、目を見た質問形式の会話を続ける事で回復する。
中期であれば会話に経験と言うワクチンが必要になり、どっぷり浸かった末期の人は自然回復を期待するしかない。

監視妄想や被害妄想から抜け出させる為の方法

※ 電子ブック「被害妄想解体新書: 被害妄想を知り克服する」アマゾンにて販売中!

このページは本人ではなく、親御さん・友人知人用です。

被害妄想とか監視妄想と言うと、統合失調症と決め付ける人も多いのですが、被害妄想とか監視妄想と言う物は、統合失調症に限った症状ではありません。
また、被害妄想や監視妄想=心の病と言う訳でもありません。
逆に言えば、心の病を発症させる原因と考えるべきなのです。
※以前のページで書いていた事や、ブログ等で書いていた被害妄想の原理やメカニズム及び対処などを「集団ストーカーと言う被害妄想 ガスライティングと言うマインドコントロール」と言う1冊の本にまとめました。

また何故、被害妄想を持つに至るのか、それを育児教育の視点で書いたのが「凡人教育のススメ」です。
「凡人教育のススメ」は、将来被害妄想を持ち難い人間に育てる為の育児・教育書としての意味合いと、既に被害妄想を持っている人やその親御さんが、成長過程の何処の部分に問題があったのかを把握し、改善の一助になればとの想いで書いた本です。

 

被害妄想や監視妄想に説得は無意味

監視妄想を持つ人に接した事が有る人なら経験していると思いますが、監視妄想を持つ人に説得や理屈は通用しません。

監視妄想を持つ人を説得して、理解させたとしても、数日すれば元に戻っているなんて事もしばしば有り、それを何度も繰り返していたりもします。

はっきり言って、監視妄想を持つ人に説得を試みる事は無意味です。
無意味なだけでなく、「どうせ話したって分かってもらえない」と心を閉ざしてしまう事も多々あります。

逆に監視妄想の人の話に同調してしまえば、監視妄想を膨らませたり、確信してしまったり。
場合によっては、相談を受けた人まで監視妄想が伝染する事も珍しくはありません。

こうなると、手の施しようがありませんよね。

「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。」

監視妄想と言う物を知らなければ、戦いに挑む前から負けているのです。

まずは、監視妄想と言う物を理解する所から始めましょう。

 

被害妄想や監視妄想の人が見ている世界を知る

監視妄想から抜け出させるためには、先ず監視妄想の人が見ている世界を知り、監視妄想を持つ人に見えている世界を理解する事です。

「他人には自分と同じ物が見えている」と言う先入観を持って見てしまうと、もうそこから何もかもかみ合わなくなってしまい、どうして良いのかさえ分からなくなってしまいます。

まずは相手を理解する事です。
監視妄想の人が見えている世界を最も疑似体験できるのがこの映像です。

まず、我々が見えている世界を現した物がこの映像です。

 

そして監視妄想を持つ人が見ている世界を現した物がこの映像です。

見えている世界が違うでしょう?
見えている世界が違うのに、監視妄想の人も「見えている物は同じ」と言う先入観の元に話をしても、見えている世界が違うのに納得できるはずもありませんよね。

監視妄想の人に説得を試みると言う事は「見えている世界」と言う次元から違うのです。

さて、何故この様に見え方に違いが出るのでしょうか?
それは凹凸が逆転しているからなのです。
さて、この二つの映像を見て「なるほど」と思った人もいるでしょう。
そして「理解出来た」と思う人もいるでしょう。

この映像を見ただけで、「なるほど」と思ったり「理解出来た」と思う事こそが、監視妄想への入り口なのです。

変な話だと思うでしょう?

さて、何が悪いのでしょうか?

それは実際に自分で試していないからなのです。
つまり「経験していない」という事なのです。

まずは、この映像に使われているペーパークラフトを実際に作って、色々試してみる事です。
ここからダウンロードできます。
このペーパークラフトを作り、実際に試してみると、意外にこの映像の様な現象は起きません。

このペーパークラフトを実際に作ると、先ず手に持って確認しようとします。
手に持っているような近距離では、こう言った現象は起きないのです。

しかし、距離を置いて見ると、こう言った現象が起こります。
そして、手で持てるほどの近くでも、カメラを通して見ると例え近くであってもこの現象が起こります。

そこにこそ、監視妄想の原理があるのです。

これは凹凸が分からない時、脳は鼻は凸であると判断して、凹んでいるにも拘らず凸として感じている為に、自分を見続けているように見えるのです。
この現象を「逆遠近錯視」と言います。(何が逆転しているかは後述)

このペーパークラフトは、監視妄想について色々な事を教えてくれます。

1. 凹凸が逆転していると、自分を見続けているかのように動いて見える。
2. 近くでは逆遠近錯視は起こらないが遠くでは逆遠近錯視が起きる。
3. 近くでもカメラで写せば逆遠近錯視は起きる。
4. 実際に自分で作って試して経験しなければ、上記2.3のような映像だけでは知り得ない事を知る事が出来ない。

これが被害妄想や監視妄想の原理なのです。

 

不安と言う物を理解する

「脳の状態を理解する」で「扁桃体が不安や恐怖を感じる」と書きましたが、不安とはいったい何なのでしょうか?

人は、不安と言う言葉を感情を表す言葉として使っていますが、「不安」と言う言葉を具体的に説明できる人は意外と少ないのです。

「不安」と言う感情的な表現を、具体的な言葉にすれば「分からない事」なのです。
「見えない」「知らない」「予測できない」など全てが「分からない事」なのです。

分かっていれば、不安を覚える事もありませんよね。
人は誰でも心に不安を持っています。
しかし、その不安に苛まれる人と、不安に苛まれない人がいます。
その違いは何処にあるのでしょうか?

その違いは「客観視」にあります。

客観視とは「物事を自分の利害や感情などを除いた観点で考える」と言う意味です。

それを具体的な感覚的表現に言い換えると「高い所から何も考えずに全体を見渡す」と言い換える事が出来ます。

それをイメージにするとこんな感じです。

不安の客観視

上が白が不安要素、灰色は楽しい事。
客観的に見ていれば「不安な事もあるけれど楽しい事もある」とか「不安もあるけれど、楽しい事はもっと一杯有る」とか、不安と同時に楽しい事も見られます。

この客観的視野を持ち続けていれば、不安要素が近付いてく来るのが分かりますし、何処に抜け道があるのか?それをどうやって通り抜けるか?等事前にシュミレーションすることが出来ますよね。

では不安に目を背ける人はどうなのでしょう?
客観的に見える不安から目をそらしていれば、いきなり目の前に不安が立ちはだかります。

その時はこの様に見えている(感じている)事でしょう。

主観的不安

 

いきなり目の前に大きな不安が立ちはだかり、立ち並んでいます。
こうなると、大きな不安に目が奪われ、他の楽しい事など目に入りません。

つまり、不安を大きくしてしまう理由は、嫌な事や不安な事から目を背けたり、考えないようにする事なのです。

そして、目の前に立ちはだかった大きな不安について、あれこれ連想して考えてしまいます。
そうして連想して考えてしまった事を現実だと思ってしまう事で、不安から抜け出せなくなってしまいます。

 

スルー

人は目に映る物が全て見えている訳ではありません。

こんな経験は無いでしょうか?
どんなに探しても見付からなかった物が、探すのを止めたら目の前にあった。

不思議ですよね?

それは目から入ってくる映像としては網膜には映っていても、認識できなかったのです。

人は目に映っている物全てが見えている訳ではありません。
いや、見えていると言う表現は的確では有りません。
認識していると言い換えた方が良いでしょう。

見えていても認識していなければ記憶に残りません。
人は自分にとって重要な事、興味や関心のある事、意識している事以外はスルーしているのです。

例え毎日見ている物でも、スルーしている物は記憶に残っていないのです。

その毎日見ていてもスルーしていた事に注意を向けさせられて、意識して見る様に仕向けられるのが、集団ストーカーやガスライティングと言ったマインドコントロールなのです。

 

妄想と現実の違いとは

妄想と現実の違いを考えて見ましょう?

先ず妄想とは「根拠のない誤った判断に基づいて作られた主観的な信念。」と言う意味です。

では現実とは?
「現に存在し活動するもの。想像・虚構や可能性ではなく、現に成り立っている状態。実際の存在。実在。」です。

さて、学校で学んだ学問は、現実でしょうか?それとも妄想でしょうか?

「学校で学んだ事(学問)」と言う物を、妄想と言う意味と現実と言う意味を踏まえて、今一度考え直してみましょう。

確かに学問は現実に存在する物です。
そう言った意味では現実ですよね。

しかし、本当に現実なのでしょうか?

現実に存在すると信じているだけではないでしょうか?
自ら確認もしていない事を、「現実に存在する」と言えるのでしょうか?

ここが問題なのです。
自ら確認していない事と、妄想と何処が違うのでしょう?
誰もが「事実だ」「本当だ」と言っている事を信じているだけではないでしょうか?
その事と、誰かの妄言を信じる事と何処が違うのでしょう?

何事も、自分で経験して初めて現実になるのです。

経験もせずに得た知識は「知ったつもり」になっているだけで、本当の事は何も分かっていないのです。

つまり、実際に存在する同じ一つの事象でも、経験して「知っている」は現実で、経験もせずに「知っているつもり」だけでは妄想と同じなのです。

「知っている」人から見れば、「知っているつもり」の人は幼稚に見えます。
幼稚に見られると子ども扱いされ、何事も任せて貰えません。
それが「知っているつもり」の人には「差別」に感じます。

「知ってるつもり」を「知っている」と勘違いし「自分は知っている」と思い込んでいる人は、思わぬ所で失敗します。

その失敗の積み重ねが「知っている」になって行くのです。

「知っているつもり」の人は、その知識を使う場面が来ると不安に駆られます。
不安になりあれこれ連想して考える事で、不安を増長させてしまいます。

不安が増長すれば、何かと理屈を付けてやろうとしなくなります。
やりたくもない事をやらされれば「強要」に感じます。

そして何時までもやらなければ「知ったつもり」から抜け出せないままです。
不安とは「分からない事」、つまり知らないのです。

妄想と現実を分ける物は「経験」の有無なのです。

あのマジックドラゴンを実際に作り肉眼で試すと、近くでは逆遠近錯視は起きませんが、3~4メートル以上離れると逆遠近錯視が起り始めます。

その理由は、距離が離れた事により、立体としての視覚からの情報不足を脳が補い始めるのです。

それは情報不足で分からない部分を想像で補ってしまうから逆遠近錯視が始まるのです。

それと同じなのが「知っているつもり」の状態なのです。

 

怪しい事を探す

ここまでの事を踏まえて、「怪しい」と言う事を少し考えて見ましょう?

「怪しい」とは何か?
「怪しい」とは、不安と同じ様に「分からない事」であり、「見えない」「知らない」「予測できない」事を「怪しむ」のです。

人は不安になり警戒し始めると、「怪しい」と思える物を探そうとします。

それを言い換えれば「見えない」「知らない」「予測できない」「理解出来ない」などの事を探しているのです。

しかし、それまでの生活の中で「スルー」していた物は、認識していません。

元々有った物でも、認識していなかった物は怪しく思えてしまいます。

不安を持つ人に、日常スルーしている事を「犯行の手口」と言う先入観を与えて探させるのが、集団ストーカーやガスライティングと言ったマインドコントロールです。

しかし、そうしたマインドコントロールに陥らなくても、不安を抱え警戒している人は、日常のスルーしていた物を探そうとします。

その顕著な例が「ネットに書き込まれている」と言う妄想です。
そうした妄想を持つ人は、自分に符合する書き込みを探そうとします。

そして自分に符合する書き込みを幾つも見つけていきます。

しかし、そこまでの過程でスルーした書き込みの量の事はスルーしています。

見つけた書き込みも、自分を特定するような物は何も無く、単に自分の行動に符合していると言うだけで、それも誰でもするようなことばかりです。

 

ここで重要なポイントがあります。

それは「不安」と「恐怖」の違いと「妄想」と「錯視」の違いです。

この違いを認識していないとボタンを掛け違える事になってしまい、治療やカウンセリングを受けても効果が出ない事が多々あります。

詳しくは「集団ストーカー妄想は治療で治す事が困難な理由」で書いていますので、そちらをご覧ください。

 

何故監視されているように感じてしまうのか?

何故監視されているように感じてしまうのか?

その原理は「監視妄想の人が見ている世界を知る」の映像です。
つまり「逆遠近錯視」です。

さて「逆遠近錯視」は凹凸の逆転で、自分を見続けているように見えますが、監視妄想は何が逆転しているのでしょう。

それは「社会性」であり、社会性の根本原則である「信頼」であり、「コミュニケーション」なのです。

社会性は「信じる」事を基礎として成り立っています。
その「信じる」が「疑う」に変わる事が、凹凸の逆転と同じ様に感覚的な逆遠近錯視を引き起こします。

また他人を理解するには会話を重ねるしかありません。
そのために必要な物がコミュニケーション力です。

コミュニケーション力が低く、他人を理解していなければ、他人も「知らない物」になり、他人の存在自体が「不安要素」であり「怪しい存在」になります。

つまり、他人が自分の事をどう思っているか、どう見られているかを考えた時、全てが推測や憶測で考えていると言う事で、それは妄想と同じ事なのです。

さて、このコミュニケーション力ですが、単に会話ができると言うだけでは、真のコミュニケーション力とは言えません。

どれだけ自分の弱みをさらけ出せるか?が問われます。

社会性が正しく育っている相手なら、自分の悩みを打ち明ければ、相手も抱えている悩みを話してくれます。

お互いに悩みを話す事で、悩みを抱えているのは自分だけではないと言う事を知り、そうして打ち明けあう事で他人を理解して行くのです。

しかし、他人に悩みを打ち明けられない(弱みを見せない)人もいます。
それは相手を信じていないから。

つまり、社会性の基礎である「他人に対する信頼」が無いのです。

他人を信じない人は、自分も信じて貰えません。
つまり、上辺だけの関係なので、何時までも他人は未知の存在で「知っているつもり」になっているだけです。

そんな関係の中で、何かトラブルがあれば、相手から見た自分は想像に頼るしかありません。

しかし、「知っているつもり」の人は、その知識を使う場面が来ると不安に駆られ、人の目を意識したり、気にするようになります。
さて、その信頼はどの様にして作られるのでしょう?

それは、乳児期から幼年期にかけての親子の愛着によって作られます。

親子関係の「愛着」を他人に応用した物が「信頼」です。
他人に応用すべき親子関係の愛着が無ければ、他人に対する信頼も生まれないのです。

これも一つの経験による学習なのです。
親子の間で経験した事を他人に応用している訳で、経験していなければ不安で出来ないのです。
そしてもう一つ逆遠近錯視を引き起こす原因に「自責の念」と言う物があります。

何かをしてもらったが、返せない。
期待に応えられない。
礼や謝罪が言えない。

そうした事が「自責の念」を生みます監視妄想を持つ人への接し方。
その自責の念も「連想して考えてしまった事を現実だと思ってしまう」事の一つです。

その自責の念も、「相手にこう思われている」と思う事と、実際に相手が思っている事とは違います。

これも凹凸の逆転です。

 

 

被害妄想や監視妄想を持つ人への接し方

監視妄想を持つ人への接し方の基本は、否定も肯定もせずです。

否定すれば反発を招き、肯定すれば妄想を深めてしまいます。
その為否定も肯定もせず、ただ相槌をする程度で話を聞くだけに留めると言うのが基本形なのです。

しかし「否定」の意味合い次第では、否定も可能なのです。
例えば技術的否定は経験と知識を兼ね備えた人が否定しても反発を招きませんが、経験も知識も無い人が技術的否定をすれば、反発を招きます。

これは「権威性」で考えれば理解できると思います。
つまり、監視妄想に陥っている人は「権威性」を重視するのです。

監視妄想を持っている人は、疑心暗鬼になっている為、疑問に感じた事に対して突っ込んできます。
その突っ込みに対して即座に返答できるだけの知識と経験が必要で、即座に答えられなければ疑われます。

権威とは「他の者を服従させる威力であり、ある分野において優れたものとして信頼されていること」です。

つまり、判断を権威性に頼っている者は、回答を与える者に権威を感じれば、従う傾向があるのです。

そして答えを与えるのではなく、自分で気付かせる様に持って行く事です。

決して意見や考えを押し付けてはいけません。
常に、相手の心理状態を把握しながら、その心理状態に添った話をして行くことです。

その心理状態を知るには、要因や原理を知らなければ把握する事もできません。

話しをする時は、必ず相手の目を見て話しましょう。
目を見て話しをする事で、前頭葉が活性化します。

つまり、目を見て話しをする事で、理解させやすい状態になるのです。

 

被害妄想や監視妄想から抜け出させる具体論 その1

監視妄想に関する原因の大まかな説明はここまでにして、具体的な方法論に入りましょう。

先ずは、生活が不規則であるのなら生活リズムから整えましょう。
朝起きて太陽の光を浴びてラジオ体操や散歩をさせる所から始めましょう。

朝起きてラジオ体操?と思う人もいると思いますが、これはかなり重要な事なのです。
不安を抑制する物質がセロトニンです。

そのセロトニンは朝日を浴びてリズミカルな運動をする事で作られます。
セロトニンが不足していては、どんな対策をしても効果は期待できませんよね。

更に言えば、そのセロトニンを原料にしてメラトニンが作られます。
そのメラトニンが睡眠ホルモンなのです。
脳の興奮を抑えるのがセロトニンで、興奮状態が続けば眠れなくなります。
そして眠れない事で昼に眠気を感じ、悪循環に陥ります。

まずは、その悪循環を断ち切ることです。
その方法として、朝起きてラジオ体操や散歩が有効なのです。

そして食事も見直しましょう。
基本はバランスの取れた食生活です。

セロトニンを作るのに必要な栄養素は「トリプトファン」と「ビタミンB6」です。
バランスの取れた食事の中に、トリプトファンやビタミンB6の摂取を心がけた食事を取らせましょう。
様々な物を触り、様々な臭いを嗅がせましょう。
脳神経は五感からの刺激によって発達します。

特に触覚からの刺激には多量の刺激が含まれています。
五感からの刺激を増やし、脳の活性化を図りましょう。

不安に襲われている時には手を握ってあげる事も効果的です。
家族や恋人など、心を許している人が手を握ると、不安を抑える効果があります。

そしてそれもまた五感からの刺激の一つなのです。
ハグでも構いません。

人の温もりを肌で感じさせてあげて下さい。

 

被害妄想や監視妄想から抜け出させる具体論 その2

不安から、色々と連想して考えてしまった事を現実だと思っている人には、思った事に「~と思った」を付けて考えさせたり話すようにさせましょう。

「~と思った」と付け加えて話す事で、現実と妄想の区別をさせましょう。
「思った」を付けることで、連想して考えて「現実」と思い込ませないようにしましょう。
それは「自分が思っているだけ」と言う認識を持たせるのです。

 

被害妄想や監視妄想から抜け出させる具体論 その4

「幸せ」と言う感覚を持たせられるようにしましょう。

人間には4つの幸せが有ります。
1.人に愛されること
2.人に褒められること
3.人の役に立つこと
4.人に必要とされること

損得に拘っていると、こうした幸福感は中々得られません。
社会性の第一歩は「与える事」から始まります。
例えば仕事をする時でも、先ずは労働者が会社に労働力を与え、その代償として対価を受け取ります。

得ようとするのではなく、与えようとする意識を持たせましょう。

この「与える」とは、物品や金品、労働力と言った物だけではありません。

「笑顔」も大切な誰でも与えられる物なのです。

他人を笑わせ笑顔を与える人には、人が集まり集まった人から笑顔を貰えます。
自分を笑ったと怒る人は、他人から笑顔を奪います。
そして誰も近寄ろうとはしなくなり、他人から笑顔を貰う事は出来ません。

さて、この「与える」と言う事を理解した上で、4つの幸せを考えて見ましょう。

「他人に迷惑を掛け無い様に」とよく言われます。
しかし、4つの幸せとは、別の見方をすると「迷惑」でもあるのです。

誰かに頼られ、それに応えて喜ばれる。
誰かの為に何かをして、喜んでもらえる顔を見る事が「幸福感」を生みます。

「迷惑は掛けられない」と言って、誰にも頼らなければ、他人の幸せを奪うと言う事でもあるのです。

但し、許容を超える「迷惑」は断られますけどね。

「誰かを頼る」と言う事は、人を信じていなければ出来ない事ですし、弱みを見せられない人にも出来ない事です。
この「幸せ」を「与える」と言う観点からもう少し考えて見ましょう。
「感謝されたい」と思う気持ちは「感謝」の要求なのです。

つまり「感謝されたい」を前提に何かを与える事は「与える」のではなく「要求」なのです。

感謝や賞賛を求めて何かをして、感謝も賞賛もされなければ不満が出てきます。
しかし、自分がやりたい事をやり、それで感謝や賞賛されなくても不満は出ません。
そして自分のやりたい事をやった結果、それが誰かの役に立ち、感謝や賞賛を受ければ満たされた気持ちになります。

つまり何かの「道」に日々精進する事です。
何かの「道」に精進していれば、求めずとも気が付けば人に頼られる様になっています。

頼られると言う事は、必要とされ、役に立っていると言う事でもあるのです。

つまり、何かに打ち込み精進する事が、4つの幸せを得られる事になるのです。

心が満たされていれば、監視妄想などに陥ることもありません。

 

監視妄想から抜け出させる具体論 その5

「役割を与える」これは特に痴呆系の被害妄想に有効な方法です。

親孝行で「楽をさせる」と言って、何もさせないと言う事は家族と言う最小単位の社会の中で「何の役割も与えられない」事であり、それは「必要とされていない」事と同じです。

つまり4つの幸せを奪っているのです。

先ずは家族の中で役割を与えましょう。
役割を与えて、家族(社会)の一員である事を認識させましょう。

また人には「返報性」があり、何かを与えられたら何かを返そうとします。
例えば、介護老人のように、介護されるだけの状態になった時、何も返せないと「自責の念」が生まれてしまいます。

その自責の念が被害妄想を生みます。
昔話を聞いたり、昔の遊びを教えてもらったり、「役に立っている」「必要とされている」と思わせてあげるようにしましょう。

何かをお願いしたり、頼んだりすると良いでしょう。
そしてお礼を言う事を忘れずに。

ちなみに、熱心に介護をする人ほど、犯人扱いされたりしますが、それは返報性の裏返しなのです。

被害妄想や監視妄想とは、社会から孤立する事への不安や、取り残される不安から生まれるのです。

つまり、社会の一員である事を感じさせられるようにすれば、被害妄想や監視妄想は自ずと消えていくのです。

 

監視妄想から抜け出させる具体論 その6

心の病の場合、先ずは集団ストーカーやガスライティング等のマインドコントロールの影響の有無を調べてください。

医師にはそうしたマインドコントロールの認識がありませんので、マインドコントロールの影響を受けていると、統合失調症の人の言動に類似してしまう為、誤診されてしまう危険性が出てきます。

誤診されてしまうと、処方も異なってしまうので、薬の副作用で悪化してしまう場合もあります。

また、マインドコントロールを外さずに治療しても効果は期待できません。

病気とマインドコントロールは別物として、個別に対応する事が必要です。