被害妄想や集団ストーカー妄想について調べを進めて行くと、最終的に「曖昧性」に辿り着く。
現実なのか非現実(妄想)なのか、自分に向けられた言動なのか他者に向けられた言動なのか、自分なのか他人なのか、有るのか無いのか、受動なのか能動なのか、被害妄想を抱く者はそうした感覚が実に曖昧になっている。
誰かが自分の悪口を言っていると感じる、誰かに狙われていると感じる、盗聴や盗撮されていると感じると言った類の被害妄想は「自他境界の曖昧性」によって発生する。
(詳しくは被害妄想解体新書を参照)
それと同じ様に、被害妄想には「現実と非現実(妄想)の曖昧性」が存在する。
被害妄想に於ける現実と非現実の曖昧性が発生する最大の要因は「調べる」と「確認」の混同であり、それも一つの曖昧性だ。
インターネットでは色々な事が検索すれば調べられる。
しかし、どれ程ネットで調べたとしても、書物を読んだとしても、それは実際に自分で経験して確認した訳では無い。
自分の経験や体験による検証が伴っていなければ、頭の中だけの事なので妄想と変わらない。
被害妄想を持つ人にはそうした確認作業が欠落しているのだ。
ネットで検索して調べ、ネットで確認したから間違い無いと思っても、それは確認では無い。
ネットで著名人と言われている人が現実社会でも著名人とは限らない。
ネットニュースで書かれているからと言って現実とは限らない。
またネットニュースを書いている人自体がフェイクニュースを鵜呑みにしてたりする。
ネットの多数意見が現実の多数意見とも限らない。
内部告発や暴露も実際の所、何所までが真実なのかは分からない。
特許申請や論文がネットに掲載されているからと言って何の根拠にもならない。
何故なら、似非科学でも妄想科学でも申請だけなら審査が無いので何でも受理され掲載はされる。
しかし、本登録になると審査があるので落とされる。
そうした不確実な物を信じてしまうと、そこに現実と非現実の曖昧性が生じて、非現実を現実だと思い込んでしまう。
そしてその思い込みが、見える世界を色眼鏡で見せてしまう。
こうした事はインターネットだけの話ではなく、噂を信じてしまう人も同じだ。
災害の時に出回る「デマメール」を鵜呑みに信じて友人知人に送ってしまう人も、振り込め詐欺に引っかかる人も「確認」作業が抜けている。
振り込め詐欺を例に説明しよう。
振り込め詐欺の第一段階は、息子を装う犯人から「俺だけど」と電話が掛かって来る。
その時には、殆どの人は声の違いに気付いているのだが、風邪で声の調子が悪い等と言って誤魔化し、電話番号が変わったので登録し直してと伝えて来る。
この時に、登録せずに以前から登録してある息子の電話に電話して確認すれば簡単に見抜けるのだが、確認せずに息子として登録してしまうと、次に犯人から電話が来ると息子の名前が表示されてしまう。
息子の名前が表示された電話に出ると、犯人の声を脳が勝手に息子の声に補完してしまうので引っかかってしまう。
振り込め詐欺で息子を名乗る犯人の話す世界は「非現実」なのだが、それを現実だと思い込んでしまう。
これも「現実と非現実の曖昧性」であり、犯人の声が息子の声に変換される事が「色眼鏡」となっている。
振り込め詐欺に引っかかる原理と集団ストーカーを信じてしまう原理は同じなのだ。
被害妄想を抱く人達は、イジメや嫌がらせを受けていると言う。
しかし、感じる、思える、と言うばかりで確認はしない。
当人からすれば、自分が感じているから間違いではないと確信している。
しかし、相手の真意を聞くに至る人はまずいない。
聞いたとしても、犯人扱いして聞く事で、相手が動揺したり反発したりする。
その動揺を見て「見破られてうろたえている」と思ったり、反発を「誤魔化そうとしてる」とか思ったりする。
それも色眼鏡でしかなく、他人と言う鏡に映った自分を見ているに過ぎないのだ。
最初から相手を疑って聞けば、相手がどんなに「知らない」と言っても信じる事が出来ないのだ。
そして、相手が否定すればするほど疑いは深まる。
世界観と言う物を考えてみよう。
世界観は家に例えると分かり易い。
家を作る時、最も大切なのは「同じ尺度」で建てる事だ。
もし、異なる尺度で建てれば歪な家となり、歪な家は崩壊してしまう。
例えば、図面の寸法に5としか書いてなかったとしよう。
そして、左右の柱や梁を手掛けるのは異なる国の人なら、尺度はそれぞれの国で使っている尺度で考えてしまう。
すると、右の柱が5M、左の柱は5インチ、左の梁は5尺、右の梁は5ヤード。
左右の柱、左右の梁が全て同じ尺度であれば立方体の建物が出来るが、尺度が全て違えば建てる事すら儘ならない。
ネットで調べたり、書物を読んだり、テレビで見た情報を鵜呑みにして世界観を構築すると言う事は、異なる尺度で家を構築するのと同じである。
ネットに書かれている事は書いた人の尺度で書かれており、それは書物もテレビも同じだからだ。
そうした異なる尺度には「換算」が必要になる。
その換算は、自分の足で歩き、自分の手で触り、自分の目で確かめなければ出来る物ではない。
例えば、小学生の頃には広く感じた校庭が、大人になってから見ると然程広く感じない。
それは自分の身長や歩幅が変わり、スケール(尺度)が変わったからである。
そして歩幅は人それぞれ違うので、感じ方も人それぞれ違うのだ。
子供と言う小さな物差しがそのまま成長すれば、物差しに刻まれている目盛りは間延びする。
そんな物差しでは世界を正確に測る事は出来ない。
常に目盛りを更新し続けていなければ正確には測れない。
その更新や換算が経験や体験である。
自己愛性パーソナル障害と言う病気がある。
その発症要因は、親に認められず育つか、貴方は特別と過保護で育つかの真逆の要因で発症する。
何故真逆の要因で発生するのか?
この二つに共通するのが「物差し」である。
正当な評価をされて育てば、物差しの目盛りは正しく刻まれるが、正当な評価を受けずに育てば狂った目盛りが刻まれる。
その狂った目盛りの物差しを持っているから病気なのだ。
言葉は、自分が見た物、感じた事、様々な体験を他人に伝え、その話を聞けばその光景を思い浮かべ、自分で経験して無い事を、さも自分で体験したかのように感じる事が出来る。
しかし、それはあくまでも他人の経験であって自分の経験ではない。
そこにスケールの違いが有ることに気付かず、ネットや書物で得た知識で世界観を構成していれば、歪な世界観を持つ事になる。
しかも、ネットや書物には都合の悪い事は書かれていなかったり、歪曲して書かれていたりする。
そうした事を知らずに鵜呑みに信じてしまえば、歪さに拍車が掛かる。
歪な世界観の中にいると言う事は、何時崩れるかもしれない不安定な家に住んでいるのと同じである。
故に、何時崩れるかも知れない不安に襲われ、多大なストレスを継続的に受け続ける事になる。
不安とは「身に危険が及ぶかも知れない」と思える時に発生する。
「かも知れない」を分かり易い言葉に直すと「闇」であり、「疑心暗鬼」の語源が、不安と言う物を的確に表している。
疑心暗鬼の語源は「暗闇と言うだけで疑い、鬼がいるかのように見える」と言う意味である。
つまり闇とは未知であり、知らない、分からないと言った意味である。
つまり、未知だからこそ危険が潜んでいないかが不安となり、知っていれば不安にはならない。
だからこそ、不安に駆られると自分にとって未知なる物や未知なる世界を疑い、知りたい衝動に駆られてそれらを調べてしまうのだ。
しかし、経験の伴わない知識を集めれば集めるほど世界観は歪になり、そんな世界観の中で過ごしていれば継続的にストレスを受ける事となる。
経験のある事なら必要以上に考えないが、経験も無い事をあれこれ考えると不安が不安を呼び、際限なく考え続けてしまう事になる。
そして何より、疑いを持って調べると言う事は、疑いを晴らす情報には目もくれず、疑いを深める情報しか集めようとはしなくなる。
そこに情報の非対称性が生まれ逆選抜の状態に陥る。
その逆選抜で構築された世界観こそが継続的ストレスの温床なのだ。
そして、その継続したストレスにより脳細胞がダメージを受けて、鬱病や統合失調症などに代表される精神疾患を発症する。
そう考えると、インターネットの普及率の推移と精神疾患の発症率の推移が重なっている事の因果関係を理解できるだろう。
例えばそうした世界観を「盗聴」の世界観で具体的に説明しよう。
実際の盗聴器を見た事も触った事もない人の持つ盗聴に関する知識は、主にTVやネットで言われている事だけで世界観が作られている。
そうした世界観では、さも盗聴が日常的に横行している様に思われている。
TVの盗聴特集などは我々専門家が見れば一目で嘘だと分かるのだが、鵜呑みにしている人は気付けない。
ネットでそれを嘘だと指摘すれば「お前とはレベルが違う」とか言われたり、「出演者に対するやっかみ」だと言われたりする。
しかし、それはレベル以前の問題なのだ。
では、何故一目でわかるのか?
簡単な事だ。
テレビに嘘が堂々と映り込んでいるからである。
しかし嘘が堂々と映り込んでいても、殆どの人は全く気付けない。
それが分からないと言う事は、現実の事は何も知らず嘘を見抜けないと言う事だ。
言い方を変えると、何も知らないからテレビの嘘やデマカセが見抜けず、TVと言う「権威性」で信じてしまうのだ。
そして鵜呑みに信じた人達が、ネットで声高に危険を指摘して拡散し、拡散した事で、さも多数意見かの様な錯覚に陥り、不安な社会を作り上げて行く。
その拡散した人達の多くに悪意は無く、善意で行っているから始末が悪い。
この盗聴の世界観と同じ様な世界観を植え付けられてしまったのが豊洲市場の問題である。
植え付けられた先入観の一番厄介な所は、一度先入観を持ってしまえば、全てが怪しく思えてしまう事だ。
例えば豊洲市場の問題でも、一旦疑いの目を持ってしまうと、過ちを正す意見が擁護や言い訳にしか受け取られず、全体の風向きが変わるまで聞く耳は持たれなくなってしまう。
そして、疑惑を指摘し追及する者は称えられ支持を集め、更なる疑惑を探し出し追及しようとする。
しかし、それは当たり前の事を知らないが故の疑惑でしかなく、その為に何億もの税金が無駄に消える事になる。
そうした観点を持って見ると、税金の無駄遣いを無くそうと声高に支持を集めた人が、最も税金を無駄に使っている事が見えて来る。
それも一つの逆選択である。
一旦先入観を持ってしまうと、その先入観に支配された見方しか出来なくなってしまう。
それこそが歪な世界観である。
そして、植えつけられた先入観は簡単には消えず、歪な世界観から受けるストレスが精神を蝕んで行く。
精神疾患を発症するだけならまだ良い。
ストレスは自律神経のバランスを崩し、その延長線に精神疾患が有るのだが、その不安な状態が続くと死の危険性が高まってくる。
自律神経は心臓も司っている為、心不全を起す確率が高まり、免疫力の低下から発ガン率も上がる。
ネットで集団ストーカーだと騒ぎ、集団ストーカーがさも実在するかのように吹聴する事は、信じた人を死に追いやる事にもなり兼ねない。
また、集団ストーカーを信じ続けている人は、死の危険が高まっている事を自覚した方が良い。
こうした世界観は人間関係も同じだ。
例えば、調査依頼者や相談者からよく耳にするのが「あの人は電気屋だからそれ位出来る」とか「あの人はパソコンに詳しいからそれ位出来る」と言った言葉だ。
それらはイメージで言っているだけで、過大評価した妄想上の相手でしかないのだが、それを現実の相手だと思い込んだり、気遣いをハラスメントと思い込んだりして勝手に敵対視して不安に怯えている。
それは風車を巨人と思い込んで戦いを仕掛けるドン・キホーテと同じである。
そこに現実と妄想の曖昧性が生じ、同時に自他境界の曖昧性も生じる事になる。
幻聴や被害妄想を研究して来て分かった事がある。
それは幻聴も被害妄想も同じ機能によって起こっている。
それが「補完」だ。
補完とは、見えない部分や聞えない部分を周囲の状況から判断して補う機能である。
被害妄想も、分からない部分を状況から判断して補われる思考の補完である。